楽な道と正しい道

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人が世の中を生きていく過程には「楽な道」と「正しい道」が存在します。信仰の道にも、楽な道と正しい道が存在します。今まで私たちが、神様が定められた正しい道を選択しながら生きてきました。数多くの人々は日曜礼拝が当然だと思い、それが正しい信仰であるかのように思っていても、私たちは神様の御言葉に目を向け、安息日という正しい道を守っています。12月25日になって世界中がクリスマスの雰囲気に浮かれている時にも、私たちは神様の血で立てられた新しい契約の過越祭を心に刻みながら彼らの過ちを諭し、正しい道を人々に教えてきました。

楽な道はどんな人にも選択できますが、正しい道は誰にでも選択できる道ではありません。私たちが今まで歩んできて、これからも歩むべき道がどのような道なのかを考えてみて、天の父と母の御心に従って常に正しい道を選択し、正しい人生を目指して歩まれますように願います。

神様の国に入ろうと思うなら

生きていると、楽な道と正しい道という二つの道のうちのどちらかを選択し なければならない時がやってきます。正しい道を選ぼうとすると、そこには困難もあり苦難も待っています。楽な道を見てみると「みんな、やりたいように楽に生きてるんだから、私だってあんなふうに生きてもいいんじゃない?」と、つい魔が差してしまいがちです。

サタンはいつも、私たちを楽な道に向かって歩ませようと試み、惑わします。しかし神様はいつも、私たちを正しい道に導かれます。その道の果てには、天国が待っているからです。

二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。 使14:21-22

神様を正しく信じる聖徒には、苦難がつきまといます。この世を取り仕切っているサタンは、聖徒たちが天国に簡単に行くようにと放ってはおきません。私たちが光を伝える時、闇の勢力は自分たちの闇の行為が明るみになるのを恐れ、それを嫌がり排斥します(ヨハ3:19-21)。そのため、私たちが神様の国に入るには苦難という過程がつきものなのです。

辛くて大変だからといって苦難を避けて楽な道に進もうとすれば、それこそまさにサタンの思う壺です。その道の先には、裁きと滅びが待ち構えています。正しい道では、時には少しばかり疲弊したり困難に見舞われることがあるでしょう。しかし、その道の果てには永遠なる天国が待っているので、私たちは最後まで耐え忍びながら正しい道を歩まなければなりません。

正しい道は、歩もうとする人が多くありません。なぜなら、その道を歩んで行こうと思えば、「必ず天国に行くぞ」という覚悟と決心が必要だからです。少数の人々しか歩めない道なので、聖書はこの道を「細い道」、「狭い門」と表現しています(マタ7:13-14)。

正しい道を選ばれたイエス様

楽な道と正しい道の分岐点には、試みがあります。イエス様は楽な道と正しい道の狭間で、正しい道を選択する模範を私たちに示してくださいました。

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 マタ4:1-4

イエス様が空腹のため極限の苦しさを味わわれていたその瞬間、最も弱い部分を刺激しながらサタンが「石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑を仕掛けてきました。祈りを一度なさればパン五つと魚二匹で五千人を食べさせることがおできになる、そんなイエス様であられることをよく知った上で誘惑してきたのです。

イエス様は楽な道と正しい道の狭間で、一片の迷いもなく正しい道を選ばれました。お腹が空いたので、とりあえずはパンが先だというのはエサウの考え方です。エサウは長子の権利がどうなろうが、とにかく食べることを選びました。しかしイエス様は、40日間食べることも飲むこともできない絶体絶命の状況でしたが「人はパンだけで生きるのではなく、神様の御言葉で生きる」という御言葉で、人はどんなに辛く空腹にさらされていても、神様の御言葉で生きるべきだということを諭してくださいました。

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 マタ4:5-10

神様が見守っているのだから、神殿の屋根の端から飛び降りても構わないではないかと、サタンが誘惑しました。楽に生きればいいじゃないかという誘惑にも、イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」という御言葉により、神様は試みの対象ではなく信仰の対象であることを諭されました。もし兵士や大祭司やファリサイ派の人々、そして書記官を皆滅ぼしてしまい、十字架の苦難を避けていく楽な道を選ばれたなら、果たして私たちは救われることができたでしょうか?全能なる権能をお持ちの神様であられても、楽な道の代わりに子どもたちを救うために犠牲になるという正しい道を選択されたのです。

最後に、サタンは自分を拝めば世の中のすべての栄光を与えようと提示しましたが、イエス様は「神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という聖書の教えによってサタンのすべての誘惑を退けました。たとえ辛く大変な状況でも、正しい道を捨ててまで楽な道を選ばないということ、これが肉の衣をまとってこの地に来られ、人類の実物教訓となってくださったイエス様の返答でした。

宣教に生きる人生を選択し、頼まれる

いつもサタンは、楽な道を提示してきます。「こうすれば、今よりも楽な生活ができるんじゃないか?」「こうすれば、社会的に成功できるんじゃないか?一度やってみたらどうだ?」と、傍らに忍び寄って来て誘惑します。しかしキリストは、苦境や逆境に見舞われても常に正しい道に向かって進む信仰を持つようにと、福音生涯の初期の頃からそのような重要な教えを下さいました。

楽な道にばかり行こうとすればサタンの罠にひっかかるしかありませんが、正しい道を選択すればサタンの妨害をすべて退けることができます。どのように生きることが正しいのかについて考えながら、正しい道を選ばれたキリストの行跡について調べ、そのとおりに従って行きましょう。

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 マタ4:17

試みに勝利されたイエス様が何よりも先に取り掛かられたことは、天国に行くことのできる道を世界中の人々に知らせること、すなわち宣教でした。イエス様は福音の道を先駆けて歩まれながら、宣教というものが何よりも最高に正しい仕事であるということについて、御自ら模範を示してくださいました。

世界中に福音を伝えることは、キリストが最後に遺された願いでもあります。

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 マタ28:18-20

イエス様は「悔い改めよ、天の国は近づいた」と呼びかけながら、三年半の公生涯の間は宣教を通して人類の救いに全力を注がれ、復活・昇天された後は、残された弟子たちにその正しい仕事をしてほしいというメッセージを残していかれました。

福音を伝えるというのは、容易なことではありません。宣教には幾多の困難が伴います。世の中に対する欲望で頭がいっぱいの人々の魂を悔い改めさせて神様に立ち帰らせることは、並大抵のことではありません。そのため使徒パウロは、宣教を通して受ける困難を「産みの苦しみ」にたとえました(一コリ4:15、ガラ4:19)。しかし、これが私たちがこの地に存在する理由であり、この地で正しく生きていくことのできる方法であるので、神様は私たちが自分のことだけを考えるのではなく、周囲のすべての人々に目を配るようになさいました。彼らを皆救いに導いて、永遠なる天国という故郷に帰っておいでというのが、まさに聖なる天の父と母の御心です。

神様は聖書を通して、キリストの生涯を辿っていくことのできる人生の指標を、明確に示してくださいました。楽な道より正しい道を歩むという信仰的覚悟で天の父と母が歩まれた道に従っていけば、私たちも多くの魂を救うことができるはずです。

ヨナが選んだ、楽な道と正しい道

福音を伝えるにあたってどんな困難にぶつかったとしても、私たちは常に正しい道を選択すべきです。預言者ヨナの行跡は、楽な道もしくは正しい道を選んだ時に、それぞれどのような結果が与えられるかについて教えています。

主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。 ヨナ1:1-3

神様はヨナに、ニネベに行って御言葉を伝えなさいとおっしゃいました。ニネベはイスラエルを苦しめた敵国アッシリアの首都でした。ニネべの人々は神様を信じず偶像を崇拝していたので、ヨナはそこに行く代わりに預言者の使命を捨てて、タルシシュに逃げようとしました。神様の言いつけに従う正しい道ではなく、困難から逃れようと楽な道を選んだのです。ヨナはこっそり船に乗って逃げようとしましたが、神様の御目を避けることは不可能でした。

主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。…さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。 ヨナ1:4-7

その後、海に放り投げられたヨナは、神様が準備しておられた大きな魚に飲み込まれました。彼は魚の腹の中で悔い改めの祈りをささげ、困難にぶつかったとしても神様の御心通りに生きるという新たな決心を固めました。生きる方向を正しい道に方向転換したところ、神様は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させ、再び命令を下されました。

主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。…ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、…王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。 ヨナ3:1-10

悔い改めたヨナは、神様が再びニネべに行きなさいと命じられる否や、直ちに正しい道を選択しました。行って神様の御言葉を伝えると、彼が想像だにしていなかった変化が繰り広げられました。王を始めとしてニネべの都の全住民が神様を信じて断食し、過去の罪を悔い改め、その結果12万人に及ぶ人々が災いから救われたのです(ヨナ4:10-11)。

『かつて聖書に書かれた事柄は、私たちを教え導く教訓』として記録されたと言われましたが(ロマ15:4)、ヨナ書が与えている教訓とは何でしょうか?ヨナは、初めは楽な道を選んで神様に叱られました。しかし悔い改めて大胆に神様の御言葉を伝えてみると、12万人もの人々を一度に悔い改めさせるという驚くべき御業がなされたのです。ペトロが、五旬祭での聖霊の御業によって一日に三千人、五千人を悔い改めさせた事件を新約聖書で確認できますが、旧約時代当時、神様について知らなかった異邦人たちをこのような大々的な悔い改めに導いた出来事はほとんど見当たりません。このすべてが「このために死ななければならないなら、死のう」という覚悟で正しい道を選んだ結果でした。

神様に認められた者たちの選択とその結果

人々は楽な道を歩むことを好みます。しかし、楽な道を選ぶよりは正しい道を選ぶことができなければなりません。どんな障害が待っていても天の父と母の御心の中で正しい道を選ぶなら、サタンの勢力はくじかれるしかありません。

天の父と母も、楽に生きる道ではなく困難に見舞われたとしても正しい生き方をするようにと今まで子供たちを教育してくださり、身をもって模範を示してくださいました。また、子供たちもそのような模範に倣う中、現在まで神様の教会は成長を遂げてきました。

今、世界中の聖徒たちが人類を救うという決然とした意志を胸に、共に福音を伝えています。私たちが宣教するのは、この仕事が正しいことだからです。放っておけば地獄へ行くしかない魂のことが心配で「どうすれば悔い改めさせて天国へ導くことができるだろう?」と思うから宣教するのではありませんか?楽に生きたいと思うなら、敢えてそうする必要などありません。ヨナも楽な道を選んだ時は、他人のことは考えず自分の身の安全だけを考えました。しかし正しい道を選択した時は、御言葉を伝えて死ぬことすら覚悟したので、神様がニネべの都の人々を全員悔い改めさせるという御業を成してくださいました。私たちも同じく正しい道を選択した時に、神様がヨナに与えられた御恵みと権能を与えてくださり、全人類を救ってくださると確信しています。

…わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 一テサ2:3-4

宣教は、神様に認められた人々だけができる正しい仕事です。天国では「多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」と記録されています。自分の十字架を担って喜んでキリストの苦難にあずかり、一つ一つ実を結んでいくまでの過程が決して容易ではないことを、神様はご存じだからです。

タラントンのたとえにも、五タラントンもらった人はすぐに出て行って汗水流して苦労して、さらに五タラントンを儲けました。一タラントンをもらった人は何もせず、タラントンをそのまま地中に埋めておきました。(マタ25:14-30)、埋めてしまって何もしなければ、とても楽です。しかし、埋めておいてただ沈黙したままでは、私たちの周りではどんな変化も起こりません。逆に、たとえ辛くても逆境を乗り越えて熱心に福音を伝えた結果は、豊かなタラントンとして残されるでしょう。

どんな困難にぶつかったとしても、神様の御言葉によく聞き従って正しい道を歩んで行くシオンの家族の皆さんになってください。正しい道には苦労が待っていますが、その道で得る実であってこそ、とても大切で貴いものです。自分は果たして一タラントンをもらった人のように楽な人生を送っているのか、それとも十タラントンを残すために正しい道を走っているのか、自分の人生について振り返ってみましょう。天の父と母が先駆けて歩まれた正しい道に従って、いつも聖霊の祝福に満たされる中で必ず天国へ入城し、世界中のすべての民を天国に導いてくださいますように願います。