マタイによる福音書の御言葉を見ると、神様のことを「わたしたちの父」(マタ6:9)と記録しています。ガラテヤの信徒への手紙には、今度は神様のことを「わたしたちの母」と記録しています。コリントの信徒への手紙二には、私たちは神様の息子・娘たちだと表現されています(二コリ6:18)。これらすべての御言葉を総合してみると、聖書は私たちが神様を父母として仕える天の子どもたちであり、天国の家族であるという事実を教えていることが分かります。
天で罪を犯してこの地に追い出されてきた私たちの頭の中には、この事実が記憶として残っていません。霊的世界での出来事を、今私たちが生きている三次元世界にいながら思い出そうとするのは、実に無理な話です。しかし「わたしたちの父」、「わたしたちの母」というのは単なる名称ではありません。実際に私たちの父であられ、母であられるのです。神様は聖書の証しを通して、この点についてはっきりと諭してくださっています。
家庭で子が親に対して当然果たすべき道理、それは「親孝行」です。地上にあるものは天にあるものの写しと影の役割をするため、私たちは肉の家庭を通して霊の家庭についても研究することができます。聖書には、霊の両親であられる神様に親孝行をした信仰の先祖たちが多数登場していますが、そのうち、マリアという女性の行いを通して神様への孝行心を学んでみましょう。
マリアが石膏の壷に入った香油をイエス様に注ぎかけた行為。その裏になにがあったため、イエス様が「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃったのでしょうか?
まず、ルカによる福音書の御言葉を確認してみましょう。
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。…「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。… ルカ7:36-49
ルカによる福音書の記録を見ると、ある女性が泣きながらイエス様の足を涙で濡らし、自分の髮の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して香油を塗ったという内容が記録されています。マタイによる福音書には「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」というイエス様の御言葉も記録されています。
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 マタ26:6-13
イエス様の御言葉のように、マリアのこのような行いは四つの福音書に余すことなく記録されています。ヨハネによる福音書では、マリアがイエス様の御前に進み出て、涙でイエス様の足を濡らして髮の毛でぬぐって香油を塗りましたが、傍らでその姿を見守っていたイスカリオテのユダが、むしろ怒り出す場面が出てきます。ほぼ一年分の賃金に当たる高価な香油なので「一度に注いで使い切るよりは、それを売って貧しい人に施してあげればいいのに」という論理でした。しかし聖書は、彼がそう言ったのは貧しい人々を助けたいという気持ちよりも、香油を売った代金を盗むためだったと書かれています(ヨハ12:1-8参考)。
イエス様が「福音が宣べ伝えられる所にはどこにでも、この女のしたことも一緒に語り伝えられる」とおっしゃったのは、イスカリオテのユダの本心を見破られたように、マリアの心の内面をもご覧になったからです。
彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 サム上16:6-7
人は外見を見て判断しますが、神様は私たちの心の内面をいつもご覧になっています。マリアがイエス様に香油を注ぎかけた行為の裏には、永遠に死ぬしかなかった天の罪人である私たちを救うために、人の姿で直接この地まで来られた神様に対するこの上ない孝行心があったのです。本来なら毎日のように極上の礼遇を受けられたとしても足りない神様なのに、人々から誹謗中傷や迫害を受け、嘲弄されながらも最後まで救いの御手を差しのべるのを放棄されず私たちを導いてくださった神様。その神様の御恵みを心から悟ったので、高価な香油も惜しみなく注いだのです。
イエス様を見つめながらマリアが流した涙には「私のような罪人のせいで凄絶な日々が待ちかまえているにもかかわらず、この地まで来られたのですか?どうしてこんな生き方をされるのですか?」という悔い改めと悟りが滲んでいました。マリアの涙に滲んだそのような美しい心情をご覧になったイエス様は、福音が宣べ伝えられる所にはどこにでも、この女のしたことを記念として語り伝えるようにとおっしゃったのです。
神様は私たちの天の父・天の母であられ、私たちは聖霊が御自ら証ししてくださった天の息子・娘たちです。天国の家族皆が、神様にこのような心からの悔い改めと孝行を行なった時、神様は本当に私たちの真心を喜んで受け止めてくださることでしょう。
この地にやって来る前、私たちは神様を「父、母」と呼び、天国で幸せに暮らしていました。ところが、サタンに惑わされて罪を犯し、罪の衣(肉体)をまとってこの地に追放され、永遠に死から逃れられない存在になってしまいました。
そんな私たちのために天の父と母は天の栄光も捨てて自らを低くされ、天使よりも劣る姿でこの地に来られて、私たちが永遠なる天国に帰ることができるように道を開かれ、犠牲の歳月を過ごされました。今もサタンは、人々にこの事実を悟らせまいと、神様に霊的親孝行をさせまいとしきりに妨害しています。
肉の両親に親孝行をするのは、当然のことです。しかしそれで満足するより、肉的な内容を通して霊的な道理についても正しく悟り、マリアのように100%の悔い改めに至ると同時に、より一層真心尽くして天の父と母に親孝行をするべきでしょう。
マリアは様々な困難に見舞われていた女性でした。しかし、神様が罪深い自分を救うために肉体という衣をまとわれたのだと悟った彼女は、極めて高価な香油の入った石膏の壺を割ってイエス様に香油を注ぎ、涙でイエス様の足を濡らし、そして髪の毛でイエス様の足をぬぐいました。私たちもマリアが流した涙、マリアが注いだ香油、そしてマリアのその気持ちを私たちの心の奥深くに刻み込んで天の父と母に孝行を尽くし、栄光と感謝を帰すことができなければなりません。
何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。 ミカ6:6-8
私たちが神様にして差し上げることができる霊的親孝行は、特別なものではありません。神様は、幾千の雄羊、幾万の油の流れよりも、私たちが正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩めば、これ以上望むことはないとおっしゃいました。つまるところ、神様が営まれる世界を救う御業に全員一緒に参加することが、私たちができる最高の親孝行だということです。
父の仕事をどのように助け、母が背負われた十字架の重荷をどうやって軽くして差し上げるか、これらの問題について一緒に考えていきながら、神様に孝行を尽くす子供たちになりましょう。それゆえ神様は、私たちに福音の仕事をゆだねられ、新しい契約に仕える資格を与えてくださったのだとおっしゃいました(一テサ2:4、二コリ3:6)。
「知恵の王」ソロモンは、最高に重要な教えを一つ残してくれました。古今東西のどんな賢者よりも優れた知恵を持っていたと知られている彼が、人生について最終的に下した結論は次のとおりです。
賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。…すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。 コヘ12:11-14
聖霊に導かれて「コヘレトの言葉」を記録したソロモンが最終的に下した結論は、霊の両親である神様によく仕え、そのすべての御言葉に聞き従うことが、人類がわきまえるべき最も重要な本分だということでした。つまり、天の子供たちは天の両親に親孝行をすべきであるという事実を、ソロモンは聖霊による教えを通して諭しています。
人々は天使の世界での出来事についての記憶を失い、生きる理由と目的について何も分からないまま、3次元世界、つまりこの地のことがすべてであるかのように生きています。衣食住の問題をやりくりし、世の富と名誉を追い求めながら一日一日を過ごして、死を迎えた時には神様の裁きの座の前に立つことになるのです。
ソロモンは、この世の富と栄華を享受した経験がありますが、そのすべてが風をつかむように空しいものであり、私たちには将来帰っていく永遠なる世界があるということをコヘレトの言葉の中で諭しています。その世界を治めておられる神様、すなわち私たちの霊の両親を畏れ敬い、その戒めを守ることが人がわきまえるべき本分なのです。神様は隠されていたすべてのことを最も最後に明らかにされ、各自の行いに応じて報い、また裁かれることですべての御業を終えられます。
「人の子」という立場でこの地に来られたイエス様も、死に至るまで神様の御心に服従なさることで、孝行とは何かについて御自ら模範を見せてくださいました。イエス様の教えのうち、神様に孝行しなさいという教えについて調べてみましょう。
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。 マタ22:34-38
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という御言葉は、「神様は私たちの父であり母であるのだから、子の立場で霊的孝行を尽くしなさい」という教えです。イエス様は、これが律法のうち最も重要な第一の掟であると教えてくださいました。
つまるところ、最も重要な第一の掟も、ソロモンが最後に書き記したように「心を尽くして神様に孝行を尽くすこと」なのです。私たちは、神様は絶対的なお方なので私たちとは全く別の存在だと思っていましたが、神様は「新しい契約」という絆を通して、血と肉でつながった切っても切れない関係、つまり私たちの父と母になってくださり、私たちは神様の息子・娘たちになれるようにしてくださいました。神様の子である私たちが神様に孝行を尽くすのは、当然なことなのです。
この地でも、子が親孝行している姿を見ると、何だかとても心温まりませんか?遠い過去の昔話であっても、親孝行をした息子娘の逸話は現代まで伝えられ、人々に教訓と感動を与えています。
私たちも、天国に行った時に天使たちに話し聞かせてあげられるような感動的な体験談をたくさん作っておきましょう。世々限りなく栄光を受けられるにふさわしい神様が人の姿でこの地に来られ、子供たちの罪の赦しと救いのために、その一生をつぎ込まれました。すべてに耳を傾けて得た結論である「神を畏れ、その戒めを守れ」。これこそ、私たち人間が当然果たすべき本分です。
初代教会の多くの聖徒たちが神様に孝行を尽くしましたが、遅まきながら悟りを得た使徒パウロは、神様にこのような親孝行の道理を、格別に果たしました。それについての内容を、一度見ていきたいと思います。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 ロマ8:35-39
神様は、この世の何よりも私たちを大切に思われ、愛しておられます。私たち本人よりも私たちのことを大切に思って愛してくれる人は、両親以外にはいません。使徒パウロは、いかなる艱難や状況も神様の愛から自分を引き離すことはできないという覚悟で福音に臨みました。一人の罪人の悔い改めは、悔い改める必要のない九十九人の正しい人の存在とは比べものにならないほどの大きな喜びであるとおっしゃったため、天の父と天の母にそのような喜びをささげたくて、宣教の使命に最善を尽くしたのです。
シオンの家族の皆さんも、聖書が諭しているように神様を愛し、畏れ敬い、そのすべての戒めを守る、最高に賢く正しい人生を生きていかれますように重ねてお願いいたします。そうした時に初めて、マリアが流した偽りのない涙のような、私たちの心の涙が神様の足を濡らすことができるのではないでしょうか?まだ捜し出せていない失われた兄弟姉妹を速やかに捜し出して、天の父と母に来る日も来る日も喜びをささげ、本当の意味での親孝行ができる天の子供たちになられますように願います。