聖霊の欲することを望む者と肉の欲することを望む者

227 照会

神様は私たちに、常に聖霊の欲することを望むよう頼まれました。聖霊は神様であられるので、聖霊の欲することを望むということは、神様が私たちに下さった心、神様と一致した心を持つということです。反対にサタンは、肉の欲望を吹き込んで、私たちを霊的なことから遠ざけようとします。      

福音の御業を始められたイエス様を試みるときも、サタンはこの世の富と名誉で肉の欲望を刺激しようとしました。しかし反対に、それに対するイエス様のお答えはどれも聖霊の欲することを悟らせてくださる御言葉でした(マタ4:1-10)。だとすれば、聖霊の欲することを望む者とはどのような者であり、また肉の欲することを望む者とはどのような者であるのか、聖書を通して具体的に調べてみましょう。

聖霊の導きに従って歩みなさい

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊(聖霊)の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 ガラ5:16-17

この御言葉は、肉の欲することを強く望めば、私たちが望むべき聖霊の欲することを望めなくなり、反対に聖霊の欲することを望めば、肉の欲することを制御できるようになるという教えです。聖霊の欲することは、肉の欲することとは相反する立場にあります。聖霊の欲することを強く望むようになれば、俗的な欲望から解放されます。反対に肉の欲望が強い人、すなわちこの世に対する欲望が強い人は神様の聖なる御心に反するしかありません。

肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 ロマ8:5-8

肉の欲望が強い人は霊的なことに関心がありません。そのような人は肉的なことを考え、聖霊の欲することを強く望む人は霊的なことを考えます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するので(二コリ4:18)、私たちは聖霊の欲することを望むべきです。

それではどうすれば聖霊の欲することを望めるようになるのでしょうか?ひと言で言えば、心を低くすることが最も重要なカギだといえます。心を低くしなければ、聖霊の御心がその人の中に留まることができません。

へりくだると聖霊の欲することを望むようになる

イザヤ書14章にはバビロン王の前世について記録されています。彼は天国で「明けの明星、曙の子」という栄光の座にいた天使でしたが、驕慢になり神様の栄光の座まで狙うようになります。驕り高ぶったことで、聖霊の欲することではなく肉の欲すること、つまり俗的な欲望と野望で心が満たされたのです。その結果反逆して、この地上の世界に追放されるという不幸を味わうことになりました。

サタンは全人類がそのような驕慢な心をもつことを望んでいます。神様はこの地に来られて「仕える者」になられ、御自身を低い位置に置かれました。自らを低めてから全てのものを眺めれば神様の心を持つことができますが、驕り高ぶってほかの人を見下せばサタンの心で満たされるようになります。

互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 ロマ12:16-18

高ぶることと、へりくだること、これは肉の欲することを望むのか、聖霊の欲することを望むのかの分かれ道だといえます。

‘understand’という英語の単語は、理解するという意味です。‘under’と‘stand’が合わさって形成された単語で、underは下、standは立つという意味を持っています。下の方に立って全ての事物を眺めれば理解できないことはありません。この人のことも理解でき、あの人のことも理解できます。

高いところに立つと低いところにあるものがよく理解できなくなります。英語の‘look’は見るという意味ですが、‘look down’と言えば「見下ろす」という基本の意味のほかに「見下す、さげすむ」という意味も持つようになります。見るときに下の方に目を向けて見るので、見下したりさげすんだりする意味を持つ単語になってしまいました。自分を高いところにおいて事物を見ると全てを見下すようになるのです。

‘look down’の反対語は上を見上げる‘look up’です。これには尊敬する、尊重するという意味があります。自分を下におき、全ての事物や人を見上げれば、神様が造られた森羅万象全てに敬意を抱くことができ、全ての事物、全ての人のことが理解できるようになります。

肉の欲することを望む者たちは、常に自分を高めます。驕り高ぶって全ての事物を見下します。自分を高いところにおくので全てのものが下に見えます。するとそれだけ自分を気にかけてくれないという恨みが生じ、寂しく期待外れな気持ちや不平不満をもつようになります。

ですから聖霊の欲することを望む方法は、低い位置に立つことです。高い位置に立とうとすれば明けの明星、曙の子のように滅びの道に陥るため、神様は私たちを低いところに立たされました。

アブラハムが望んだ聖霊の欲すること

聖霊の欲することを望んだ代表的な人物が、信仰の祖アブラハムです。アブラハムが甥であるロトと共に生活していたとき、二人はそれぞれ自分の僕たちと家畜をもっていました。最初は思うように放牧しても衝突することはありませんでしたが、土地には限りがあるのに、毎年家畜の数が増えていくため、アブラハムの羊飼いとロトの羊飼いの間で、自分たちの牛と羊の群れに先に水を飲ませ、草を食べさせようとして争いが生じました。そこでアブラハムはロトを呼んで提案しました。

アブラム(アブラハム)はロトに言った。「わたしたちは親類同士だ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前にはいくらでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川地域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。 創13:8-12

ここで私たちは、聖霊の欲することを望む者の心を垣間見ることができます。アブラハムは一族の最高位に立つ者であったにもかかわらず、甥に先に良い土地を選ばせました。ロトは水が豊かで草地も豊富なソドムとゴモラの一帯を選び、アブラハムはそれより条件の悪そうに見える土地を選びました。しかし当時はよく見えたソドムとゴモラの地は、後日神様の罰を受ける場所になり、アブラハムの選んだカナンの地は神様の祝福の中で彼とその子孫たちに永久の所有地として与えられました(創17章8節、19章24-29節)。

アブラハムは自分が低い立場になり、甥を高い位置に立たせました。一族の序列からすれば、アブラハムがより良い条件の土地を選んだとしても、ロトは従わなければならない立場でした。それにもかかわらず、アブラハムはロトに先に選ぶ権利を与え、より良い土地に住まわせました。聖霊の欲することを望む者は、このように常にへりくだります。

家畜が増えたことで争いが起こりましたが、アブラハムがロトにより良い土地を譲って円満に解決したように、今日福音にあずかるシオンの家族が増えれば増えるほど、先にシオンに入ってきた家族たちが、アブラハムのように聖霊の欲することを望む必要があります。すぐ目の前にある利益を望むよりも聖霊の欲することを望んで、兄弟たちに良いものを譲り施すときにより大きな祝福が訪れます。聖霊の欲することを望む者はいつもへりくだって、ほかの人に良いものを譲りますが、神様はその人により大きな祝福で返してくださるということを記憶しなければなりません。

聖霊の欲するとおりに行う愛の道

今日神様の子どもたちが続々とシオンに入って来ています。肉の欲望を持って生きてきた家族たちがシオンに来て、この世の垢を落として浄化されるためには、先に入って来た私たちが聖霊の欲することを心から望み、恵み深い模範を示しながら正しい道に案内しなければなりません。

家庭でも教会でも常に低い位置に立ってみましょう。低い位置に立てば夫も理解できるし、妻も理解できるし、子どもたちのことも理解できます。お互いに理解し合って助け合う家庭に平和があり、喜びと幸せが溢れます。聖霊の欲するどおり、神様の御言葉どおりに生きれば、家庭でも教会でも天国を実現することができます。

宇宙全体の中で最も高い位置におられる神様が、私たちを救うために人の姿になってこの地まで来られ、最も低い者として仕える模範を示してくださいました。私たちもそのような心で他人を尊重し、仕えながら奉仕するべきであり、失われた天の兄弟姉妹を捜すことに最善を尽くし、また捜し出した後はよくお世話をして、一緒に救いにあずかれるように努力しなければなりません。これが聖霊の欲することを望む者たちの姿であり、神様が教えてくださった救いの方法です。

この全てのことを、ひと言で表現するなら「愛」です。やはり愛が一番です。神様は愛であられるので、天の栄光を後にしてこの地に来られ、へりくだられ、仕えられ、私たちの罪のために十字架の荷まで負われました。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。… 一コリ13:1-4

神様は私たちに「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を下さいました(ヨハ13:34)。誰かは一方的に施して、誰かは一方的に受け取るばかりではなく、新しい契約の中では皆が愛を実践しなければなりません。愛は忍耐強く、情け深く、ねたみません。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、自慢したり、高ぶったりもしません。驕り高ぶっていては聖書に挙げられたこのような愛の属性を一つも実践できません。

神様は、私たちの根本が天で罪を犯した罪人であったという事実を教え悟らせてくださり、「へりくだって悔い改めよ」「高ぶらず、かえってへりくだりなさい」と繰り返し仰せになりました。こうした時に、私たちはこの地でまず天国を具現化することができ、永遠なる天国に至ることができます。

約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。 ヘブ10:23-25

低い位置に立ってみなければ、互いに助け合えません。高い位置に立てば、皆が自分に仕えるべきだと思うようになるのに、どうして自分がシオンの家族たちの世話をすることができるでしょうか?低い位置に立てば全てのことを理解でき、愛を施すことができます。そのようなところでは互いのために犠牲になり、奉仕するようになります。

信仰の中で兄弟姉妹が互いに助け合い、互いに愛さねばならず、また神様が下さる愛を受け取るだけではなく、私たちもその分神様を愛さなければなりません。聖霊の欲すること、すなわち神様の愛が私たちの心の中に満たされているときに、美しい実を結ぶことができます。

体の各部分が互いに配慮し合うようにされたので

神様がおられるシオンは、入って来る人は誰でも慰められ、祝福される恵みの場です。聖霊の欲することで心が満たされたシオンの家族たちになって、神様が私たちと共にいらっしゃるという事実を、聖書の御言葉だけでなく私たちの行いを通してすべての人々に実感させてあげましょう。

もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 一コリ12:17-27

初代教会の中でも、時にはもめごとが起こることがありました。救いの御恵みに心の底から感謝しきれない者たちが、肉の欲することを望んで自分を高い位置に置き、ほかの者たちを見下したことで、不平不満や権力争いが生じたのです。

教会にも神様がおのおの定めておかれた役割や秩序があります。私たちはキリストの体であり、体の各部分です。足が自分が一番下にいることに不満をもって頭の上に乗ってしまったらどうなりますか?足は足の位置に、顔は顔の位置にあればこそ美しいのです。各部分がすべて高いところを望んで自分の位置を離脱してしまったら、全体のバランスが崩れて不自由な体になってしまいます。「皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか」と言った使徒パウロの言葉は、まさしくこの事を指摘しています(一コリ12:28-30)。

肉の欲望に引きずられて職分や職責を追求して目立とうとするよりも、聖霊の欲するところに従って、より多くの家族が祝福を受けられるように御言葉によって導き、奉仕して、精一杯仕えなければなりません。社会人は職場で、学生は学校で、主婦は家庭で家族や隣人に、各自神様が置いてくださった環境で、いくらでも福音の使命を果たすことができます。皆がキリストの体の各部分として、常に聖霊の欲することを望み連合して、神様の導かれるところへはどこへでも従って行きましょう。

驕り高ぶる心を抱かないようにしましょう。もしも高ぶったら、すぐに肉の欲望に捕らわれて、結局は神様に敵対する者になってしまいます。天で罪を犯した過去を忘れず、私たちを神様の子としてくださり、シオンにいられるようにしてくださった神様の御恵みに常に感謝しましょう。そしてへりくだり、さらにへりくだって、互いに連合して連携し、キリストの体の各部分の役割を最後まで全うしてください。聖霊の欲することを望む者として、多くのことを譲って、赦して、忍耐しつつ、失われた者を捜すことに力を注ぎ、捜し出した家族のお世話をしっかりして、みな一緒に救いの道を歩んでいくシオンの家族の皆さんになられるようお願いいたします。