
職場の先輩たちが相次いで退社し、思いもよらず私が先任になりました。最初は未熟な私を先任として待遇してくれて照れくさかったけど良い気分でした。
しかし、その気分は長くは続きませんでした。先任という理由で私の担当ではないことにまで気を使わなければならず、後任たちのミスを私が責任を負わなければならない状況がたびたび発生したためです。私と関係のない業務の後始末が未熟だったという理由で目上の人に一言言われたり、「後任の管理をしっかりしなさい」という注意も受けました。
先任になりたくてなったわけでもないのに、なぜ私に責任を問うのか理解できませんでした。悔しい気持ちにもなりました。私が引き受けた業務に気を使っていると、他の仕事まで細かく世話をできないのが当然なのに、私に管理者の役割まで要求されると負担になりました。それに同僚の中には私より長く勤務していた方もいました。しかし、業務が伝わらなかったり、勤務環境が乱れているときに苦言を受けるのは私でした。このような状況で、神様は私が何を悟ることを願われておられるのか悩んでいたところ、御母様の教訓が頭に浮かびました。
「神様は仕えるためにこの地に来られました。仕えられようとせずに、互いに仕え合おうとする心が神様の喜ばれる心です。」 御母様の教訓、十二番目
神様は救い主であられるにもかかわらず人生たちに仕える模範を見せてくださいました。そんな神様の子供として、責任を重荷に思うのではなく、神様の愛を実践してみることを誓いました。業務後の処理を大変がる後任たちを助け、よく仕事を処理できなくてもかばってあげました。業務開始前には「よろしくお願いします、皆さんを信じています!」と応援の言葉をかけました。
前に指摘された後片付けは、退社する15分前に行うことにしました。ところが、掃除道具が限られていて、何人かが掃除をすると、何人かは他の整理をするようになりました。私から見れば、皆が引き受けた仕事をしているので公平だと思いましたが、直接ほうきを持って掃除した職員たちは退社時間が遅くなって残念だという気持ちを表わしました。私は職員たちに仕上げは私がするから時間に合わせて退社するように言いました。大変で難しいことは先立って引き受けられた父と母を思い出したからです。
神様の気持ちを考えながら、誰一人として残念な思いをしないような状況を作ろうとしてとった行動でしたが、意外なことが続きました。私を見た後任たちが、退社する時間が過ぎても自分の意志で掃除をし始めたのです。思いもよらない行動に驚き、胸が熱くなるほどでした。
それ以来、後任は同じミスを繰り返しませんでした。時間が経つにつれ、皆、整理整頓も気を使ってし、頼まない些細なことも自発的にするなど責任感のある姿を見せてくれました。感謝の気持ちで惜しみなく褒めたら、業務の雰囲気がもっと良くなりました。
いろいろな職場に通いながら先任の位置にいることになったのは初めてです。今回の機会を通じて、先頭に立つ人とは命令して、咎める人ではなく、仕えて正しい模範を見せる人であることを悟るようになりました。これからも神様の御心に従って霊肉共に仕える先任になって皆の心に神様の愛を植え付けます。