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召された御恵み

127 照会

昔、中国の漢の時代に全軍を統率した大将軍の韓信という人がいました。軍士統率においては、立派な将軍でしたが漢の高祖皇帝にお呼びを受ける以前は彼もただの町の無賴漢にすぎませんでした。

そのような彼が漢の高祖にお呼びを受けてから華やかな大将軍に変身し、故郷に錦を飾ったのです。漢の高祖のお呼びがなかったなら韓信は長い間歴史に残る英雄ではなく、市中の無賴の徒として無名の生を終えたでしょう。

聖書の中の多くの人物も神様がお召し下さることで、時には王にもなり、預言者にもなり、使徒にもなり、真理の勇士になって聖書に名が記録され天国に行く約束を授かりました。

そのように今日、私たちも神様に召されたのです。もし私たちも神様から召されなかったなら、いかに空しい人生を生きていることでしょう。本能的な衣食住に関することだけに縛られ、朽ちて無くなる肉身のことだけに励む蛆虫のような生涯を送り、地獄の苦痛にさいなまれたことでしょう。

神様に召された人たち

人生は一場の夢と言います。青春かと思えば、いつの間にか頭に白い霜をいただき、若さは瞬く間に黄泉の花が咲いて明日の契りも無いのがこの地を生きて行く人間の姿です。

…あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。 ヤコ4:14

…肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。 イザ40:6-7

記録してあるように、人生はしばらくの間現われては消えて行く霧のようで咲いたと思えば散りゆく野花のようなものです。たとえ良い職場、立派な学閥、社会的高い地位にあるにせよ、神様に召されない人は真に憐れむべき不幸なる存在です。そのようなものは朝日が昇れば消え行く霧のようで、死が目前に迫れば何の役にも立たぬ空しいことだからです。

これに反して、いかなる立場にあっても神様に召された人たちはそのこと自体が祝福であり幸福です。

神様に召された人たちの中でも、イエス・キリストとの対話がもっとも多かったために、時には過ちも多かった使徒ペトロを見ると、神様のお召しの御業がいかに大きいか悟ることができます。もし彼が神様に召されなかったら彼の人生は果たしてどうだっただろうか考えてみましょう。平凡な一人の漁師として生き、死んでからは地獄の苦しみを免れなかったことでしょう。

ペトロのみでなく、ヤコブ、ヨハネ、その外の使徒も同じだったはずですし、私たちも同じです。私たちは召されたので燦爛たる未来が予定されています。神様が召して下さらなかったら、束の間の平安とほんの少し上の人生の位置だけを追及して、一日一日流れ行く年月に追われ老いゆく自身に出会う空しく甲斐のない人生を送っていたことでしょう。

パウロが召されなかったなら、彼の人生はどんなだったでしょうか。この地で三、四十年間律法学者として生きて、サウルという名の罪人として彼の人生は終わってしまったことでしょう。そして今日多くのキリスト教信者の脳裏に残る偉大なる真理の勇士としての使徒パウロでなく、神様の民を殺し、迫害した罪人として地獄に入りとこしえに苦痛と刑罰にさいなまれたことでしょう。

またモ-セはどうだったでしょうか。彼もやはり神様に召されなかったらファラオから逃げてミディアンの祭司長の家で続けて羊飼いをしたであろうし、妻子との生活の営みにのみ関心を傾けながら空しい人生を生きたでしょう。モ-セだけでなくヨシュア、ギデオンもその他聖書に記録されたすべての信仰の先駆者たちも皆、神様に召されなかったらただの羊飼いとして一生を終え滅亡したことでしょう。

この地で召されなかった人たちの一生を御覧なさい。私たちがうらやむようなことなどありません。衣・食・住等基本的生活の要件は彼らも私たちも皆備えているではありませんか。しかし私たちの心は平安を享受しながら天国への望みに胸をときめかせています。神様に召された私たちが正にこの世でもっとも幸せな人たちです。

聖書でペトロに会うたびに「祝福にあずかった人」という考えを禁じ得ません。もしイエス・キリストが当時数多くの漁師の中でペトロを召されず、隣にいた他の人を召されたなら、ペトロはただの無名の漁師として肉身の仕事だけを追い求め、意味の無い一生を終えたことでしょう。しかし、神様に召された彼は福音の御業に一線を画する偉大な人物になることができました。

今日私たちはペトロよりもさらに大いなる祝福にあずかった人々です。神様は私たちを召されペトロより幸いなる位置─「初穗」と呼ばれる程の幸いなる位置─にあずからしめようと、私たちを育んで下さっています。神様に召されたことに感謝して慕ったペテロ、ヤコブ、ヨハネは絶対に後悔なき一生を生きました。

「ペトロよ、わたしに従うか。」

「ヨハネよ、ヤコブよ、わたしに従うか。」

「神様がお召し下さったのに、私が何を拒みましょうか。」

キリストに召され船も網も皆捨てて感謝と従順でイエス・キリストに従った彼らの後悔なき生涯を私たちは見習わなければなりません。キリストを宣べ伝え、天国を叫んで受けた迫害と苦難、死の脅威も苦にせずにむしろキリストの御名で迫害されるにふさわしい者になることを喜んで、毎日イエス・キリストが聖子時代の救い主だということを弛まず宣べ伝えた彼らは、今天国の御門で私たちを待っています。

召されたことに感謝して従う者の祝福

召されたことの御恵みがいかに大きいかモ-セの一生を通して調べてみましょう。

モ-セは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと…モ-セは主に言った。「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」…さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」 出4:1-12

当時、羊飼いであったモ-セは舌が鈍くて話術に優れない人でしたが、神様に召されてからは神霊なる気運が常に彼の体に漂っていて、イスラエルの60万の若者らをエジプトから導き出す領導力が生じたのです。そうして荒れ野生活40年間のあらゆる困難と受難のさなかにも常に神様の御旨に従ってイスラエルの民を導くことのできた偉大なる指導者になったのです。

召される前のモ-セと召されてからのモ-セには、とても大きな差がありました。召された後のモ-セはイスラエルの民を救い出す大変有意義で、やりがいのある神様の業に使わされたのです。このように神様に召された人たちは神様の救いの業において、大変意義のある意味深い偉大なる業績を残すことのできる機会にあずかったのです。

モ-セとペトロ、パウロの生涯はキリストのお召しと同時に全く変わって、天国の約束にあずかる麗しき生涯に変わったのです。彼らは神様に呼ばれた時、これが有意義でやりがいのある御業にあずかる絶好のチャンスだと思いました。そのような機会にあずかって感謝し、神様に召されたことを世の中で一番価値あるものと見做して実践した彼らに、神様は栄えある名と報酬を許されたことを私たちはよく知っています。彼らのように私たちも神様に召されたということが、どんなに大きな御恵みなのかを悟って感謝しなければなりません。

神様に召されイスラエルを救った聖書の英雄ギデオンを考えてみましょう。

主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか」彼は言った。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」 士6:14-15

ギデオンは召されたゆえ信仰のある大いなる勇士として聖書に記録されました。神様に召されることができなかったなら、ギデオンも平凡な家長として一生を終えたでしょう。しかし弱々しい者だったけれど神様に召されて新たに変わったのです。

このように召されたことの裏には驚くべき御業があります。モ-セのように舌の鈍い人でも多くの人の心を入れ替えさせる偉大なる指導者になったり、ギデオンのようにごく弱々しい人でも雄々しい勇士になったのです。

神様の御力に頼って

この時代に召された十四万四千人はこの世で一番有意義で、やりがいのある働きをするように選ばれた者たちです。もし、私たちが神様に召されなかったのなら、私たちの人生はどうなったでしょうか。はえない姿で、年月の流れに追われ悲しく歳だけとり、空しく意味のない一生を送って死を迎えたでしょう。

神様に召されなかったなら、その人の生涯は悲惨であるしかありません。そのような人たちに希望を与えようとキリストがこの地に在されたのではありませんか。にもかかわらず召されたことを恵みとして受け入れずに、いつも試みにおちいって恨んだり不平を並べる人がいれば神様はその人を召された人の隊列から除かれるかもしれません。

これからは、私たちそろって新たな覚悟で召された御恵みに感謝し胸に溢れる感動で失った兄弟姉妹を探しましょう。福音の御業に大きな一線を画する私たちになるよう努めましょう。たとえ私たち自身の力は微弱でも私たちをお召し下さった神様がすべての能力を下さります。

神様に召されたことそのものが余りにも大きな祝福であることを悟らなければなりません。神様は私たち皆に意味ある業を委ねられました。私たちがキリストの体の一部になってどんな役割にあずかっていても現在福音の中で私たちが預かっている自分の仕事に常に感謝の心で臨まなければなりません。

どなたがお召し下さってする仕事ですか。神様が私たちをお召し下さったのではありませんか。神様がお召し下さって福音の御業を委ねられたのに、どうして恨みや不平をいうことができるでしょうか。神様がお召し下さり、尊い使命を私たちに任せられ、ペトロよりもギデオンやモ-セよりも勝る十四万四千人の栄光を約束して下さったではありませんか。

「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」 マタ28:18-20

この業のために私たちが召されたのです。お召しを授かったなら、神様がお召し下さったという御恵みを疎かにしてはいけません。ギデオンの勇士のように、神様のために尽くすように召されたことがいかに大きな祝福でしょうか。

あずかった祝福の価値が分からずに、レンズ豆の煮物で長子の権利を譲ったエサウのような愚かな者に決してならないで、ヤコブのように祝福の価値を悟って求めるよう努力する人にならなければなりません。

召された御恵みによって漁師ペトロは使徒になり、牧童だったダビデは王になりました。神様に召された意味がいかに大きいかを常に考えるシオンの兄弟姉妹になられるよう願います。

神様は私たちを召されて、片手には真理の松明を、片手には福音のラッパを握らせて下さいました。そして宣教に必要なすべての力まで下さったのです。多くの兄弟姉妹を探して神様へと導き、大いなる祝福にあずかるみなさまになるよう願います。全ての皆様に神様の大いなる御恵みがありますようお祈り致します。