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深い信仰

78 照会

この世を生きながらすばらしい師匠に出会うということは、本当に幸せなことだといえます。そういう面で考えると、真の生涯の師匠となられ、永遠なる天国に導いてくださるエロヒム神様に出会った私たちは、この上なく大きな祝福を受けた者たちといえます。

私たちの真の師匠であられる神様は、ひたすら子供たちの魂の救いのために、この地まで来られ苦難の道を歩まれました。ひどい目に遭われ、苦しい時も、声を上げられず、人々のあざけりや蔑視、侮辱を黙々と耐えられた神様の忍耐と犠牲の代価として、私たちの魂が癒しを受け、救いを得られました。その御恵みに心から感謝しキリストの道に従う私たちが、どんな信仰をもってこの道を歩むべきなのかを考える時間にしたいと思います。

深い泉

心が広い人のことを指して、「懐が深い」と表現することもあります。懐が深い人は、落ち着いていて理解する心があり、あまり過ちを犯すこともなく、共にいる人も力が出るため周りに自然と人が集まります。

いつだったか「深い泉」という文を読んだことがあります。泉がどれだけ深いかは、その中に向かって石を投げ入れてみれば、すぐ分かるといいます。浅い泉は、投げた石がすぐ泉の底に当たって大きな音を出す反面、深い泉は、泉に投げた石が底に沈むまで時間がかかるだけではなく、大きな音もせず、泉の深さと同じくらい深い響きと余韻を残します。

これと同じく、人の心も他人が投げかけた言葉一つを通して、深さを測ることができるといいます。相手の否定的な言葉にすぐ興奮し心が揺れるのは、心の深さが浅いという証拠です。反面、心に深みのある人は、相手が投げた言葉にすぐに反応せず、ゆっくり受け止めます。このように、深く豊かな心の泉には、人が集まって渇きを解消し、新しい気運を得ます。

深い信仰を持つためには、まず私たちの心が深くなければなりません。心が深くなければ、信仰を詰める空間が足りないでしょう。

過去、神様に祝福された先駆者たちの信仰は、このように深い泉のような信仰でした。

…信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。… ヘブ11:6–19

神様の命令に従って、長い歳月をかけて箱舟を準備したノアは、周りのあらゆる迫害やあざけりにも屈することなく、最後まで神様の御心どおりに遂行し、洪水が襲ったとき家族を皆救うことができました。アブラハムもやはり、どんな状況の中でも、いつも神様の御言葉どおりに従いました。

それだけではなく、大切な独り子イサクをいけにえにささげよと命じられた時にも、神様の御心を考えて御言葉に素直に従い、信仰の父と称されるようになりました。

彼らが持っていた信仰は、人の言葉に左右される浅い信仰ではありませんでした。どんな状況や条件にも揺らぐことのない深い泉のような信仰を持っていたので、彼らは真に神様を喜ばせてさしあげることができ、自分はもちろん家族まで救いを受けることができたのです。

信仰が浅かった人たちの結末

過去の信仰の先駆者たちのように、私たちも深い信仰を持たなければなりません。周りの人の小さな一言に揺らぐ浅い信仰を持つ人は、他人の救いどころか自分自身も救うことができません。出エジプト当時、イスラエルの60万人の壮年男子が、結局カナンに入ることができず荒れ野で滅ぼされた理由も、信仰の深さと関連があります。

兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。 一コリ10:1–5

神様は、カナンに向かって行ったイスラエルの民の多数を、喜ばしく思われませんでした。信仰なしには神様を喜ばせてさしあげられないという、ヘブライの信徒への手紙11章の御言葉と照らし合わせて見る時、結局、彼らは深い信仰を持つことができなかったがために、神様を喜ばせられず、周りの環境に容易く動揺し、恨み、不平不満を言って、滅亡に至ったことが分かります。

これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。 一コリ10:6–12

当時イスラエルの民は、エジプトの地に下された10種の不思議な御業と、葦の海を分ける神様の驚くべき権能を、目の当たりにしました。しかし、深い信仰を持つことができなかった彼らは、少しでも困難なことがあるとすぐに信仰が揺らいでしまいました。

神様が施されるあらゆる奇跡や不思議な御業をすべて体験しても、つかの間の渇きや空腹の現実に耐えることができず、「なぜ我々を荒れ野に導き出し、このような大変な目に遭わせるのか」とすぐに恨みを吐き、不平不満の言葉を吐露したのです。

恨む者、不平を言う者、試みる者、偶像崇拝する者は、カナンに入ることができず、すべて荒れ野で滅ぼされました。今日、罪悪の世界から救ってくださった神様の御恵みにより、信仰の荒れ野の道を歩んでいる私たちも、周りの条件や、恵み深くない言葉一言に揺るがされ、おろおろしていたら、彼らと何の変わりもありません。神様は様々な条件や環境の中で、私たちの信仰の深さがどれほどであるか測っておられます。

シオンの家族は、皆が深い信仰を持たなければなりません。信仰生活を始めた時には多少足りない点があったとしても、信仰の年輪を積み重ねたら、積み重ねただけ信仰もより深くならなければなりません。

永遠に枯れることのない救いの泉、エルサレム

私たちには測ることができないほど深い泉が与えられました。まさに命の水がとめどなく湧き出でる救いの泉です。

…見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」 イザ12:1–6

深くて深くて、どんな干ばつが襲ったとしても、枯れることのない救いの泉から私たちは日ごとに水を汲んでいます。汲み上げた命の水で、私たちの心をいっぱいに満たさなければなりません。

しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。 ゼカ14:7–8

春夏秋冬、絶えず湧き出で、東の海へ、西の海へ、流れ行く救いの泉の水は、エルサレムすなわち私たちの天の母です(ガラ4:26)。失われた天の子供たちを捜されるため、酷い苦痛を受けられても世の荒波に少しも揺らぐことなく、深い深い泉のように全てのことを耐え忍ばれた天の母は、汲んでも汲んでも果てしなく溢れ出る命の水の泉です。

この時代、エルサレムから果てしなく湧き出でる命の水は、霊的な渇きを解消するために尋ねて来る、この世の全ての人々の魂をしっとりと濡らし、永遠なる天国の道に導いています。

…神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。…その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。…「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。…川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」 エゼ47:1–12

エルサレムから湧き出でる命の水は、深い深い川となって海に流れ、死んでいた海の水をすべてきれいにし、生き返らせています。このような預言に従って、五大洋六大州に流れていったエルサレムの命の水が、世界を目覚めさせるこの時代、日々命の水の供給を受けている私たちの心の中の泉も、より深さを増していかなければなりません。エルサレムの子供として、天の父と母に似て、深い心の泉を持てば、深い信仰を持つことができ、その救いの泉から水を汲み、渇いた魂に伝える使命を果たすことができるでしょう。

小さな石一つ投げても、すぐに反応し大きな波紋を呼んで、浅い心をさらけ出す人ではなく、この世の全ての民を生き返らせることができるほど、深い心を持ったエロヒム神様の子供にならなければなりません。エルサレム天の母の教えに従って育った子供なら、天の母のように深さのある心の泉を持って、大勢の人々の渇きを解消させることができなければなりません。

深い信仰で神様の本性にあずかりましょう

使徒ペトロは、将来姿を変えられ神様の世界に行く聖徒は、この地でも本性(品性)を新たに変えていただき、神様の本性にあずかるべきだという点を強調しました。

この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。…こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。 二ペト1:4–11

徳と知識と自制と忍耐と信心と兄弟愛と愛が、心の内に込められた信仰こそ、世俗とこの世の荒波に揺れ動くことのない深い信仰だといえます。神様は深い泉のように、深い信仰を身につけたノアとアブラハムのような信仰の先駆者たちの行跡を列挙され、私たちに神様の本性にあずかれるだけの信仰の深さを持つよう頼んでおられます。

私たちの魂がエルサレム母の深い魂に似ていかなければなりません。そうする中で深い信仰を培うことができ、天の父と母が私たちに教えてくださった気高くて汚れのない生活を営み、善い行いで神様の美しい徳を伝えることができます(一ペト2:9–12参考)。

小さなことに憤り興奮し、昨日まで持っていた大きな志を今日変えてしまう愚かな人になってはいけません。シオンの家族は、皆が神様の本性にあずかるだけの大きな器となり、救いの水を汲んで世の全ての人々の霊的な渇きを解消させられるようにならなければなりません。

そのためには、まず深い心に変わるべきです。周りの環境、周りの人たちが変わることを待つのではなく、自分自身から変わってみましょう。自分一人が変われば、世界が変わります。自分の中身が完全に変わるまで、それなりの苦難があるでしょうが、世の中に簡単に成し遂げられることは何一つありません。貴く価値ある宝を得るまでには、いろいろな困難も多く味わうものです。それで、神様は各自が持っている命の冠をなくすことがないように、しっかりと持っているよう頼まれました。

投げられた石を神様の本性で果てしなく包み抱くだけの深い心と深い信仰を身につけて、救いの泉から汲み出した命の水で、この世を蘇らせるシオンの家族の皆さんになられるよう願います。