愛する神様

253 照会

神様は私たちを愛していらっしゃいます。2千年前、天の父は子供たちを救うために栄えある天国を後にされ、肉の衣をまとってこの地に来られました。数多くの嘲りや侮辱にも耐え忍ばれ、凄まじい鞭打ち、そして十字架の刑を受けられることによって、私たちの罪の代価を代わりに支払ってくださいました。それほどまでに、私たちを深く愛してくださいました。

今も天の母が、この地で私たちと共にこの道を歩んでくださり、愛を施してくださっています。天の栄光の御座を惜しげもなく捨てられるほど、私たちのために御自身の命を差し出してくださるほど、私たちを大切に思い愛してくださいます。この世のどんなものよりも私たちを愛され、私たちの未熟で幼い姿をご覧になりながらも、いつも理解し励ましてくださいます。

私たちも、そんな神様を愛しています。しかし神様を愛していると言いながらも、ある瞬間、心の中で「愛する神様」の存在を忘れてしまったことはなかったか考えてみる必要があります。私たちの心の中に「愛する神様」がいらっしゃればこそ、本当に麗しい姿で神様と共に歩むことができ、永遠なる天国までたどり着くことができます。

愛する人と共に歩む道

あるクイズショーで「イギリスのロンドンからフランスのパリまで、最も早く行ける方法は?」という問題が出されました。解答者たちは飛行機や高速船など、思いつくままにあれこれと答えました。しかし正解は、物理的な手段ではありませんでした。出題者の用意した答えは、他ならぬ「愛する人と一緒に行くこと」でした。

愛する人と一緒に行く道なら、交通手段など問題ではありません。のろのろと進む牛車に乗って行ったとしても、その道は短く感じられます。どんなに遠い距離でも、目の前に様々な障害物が立ちはだかっても、愛する人と一緒ならその道は幸せそのものなのです。

愛する家族や恋人から、手紙をもらったとしましょう。そこに書かれた文章が長いからと「簡単に要点だけ整理して書けばいいのに、どうしてこんなに長いんだ!」と愚痴をこぼす人がいるでしょうか?10枚、20枚にも及ぶ手紙でも、ワクワクしながら読むでしょう。このように、愛する人に関することならどんなことでも、退屈に感じることはありません。話をしても嬉しく、歌を歌っても嬉しく、何をしていてもいつも喜びと幸せに満ちています。

愛する人から何か頼まれれば、それをすること自体が喜びとなります。愛する妻が夫に「仕事の帰りに、美味しいケーキを買ってきて」と頼みました。夫はそのことをうっかり忘れて、ほとんど家の近くまで来てから妻の言葉を思い出しました。それでも、必ずや引き返して妻の頼みに応えてあげようとするのではないでしょうか?たとえ仕事で疲れていたとしても、妻を愛しているなら妻の願いを聞いてあげようとするでしょう。

永遠なる天国に向かって進んで行く福音の道では、愛する神様が、いつも私たちのそばで共に歩んでくださっています。では、この道を歩んでいる私たちの心は、一体どんな状態なのか振り返ってみましょう。神様を愛する心で、毎日ときめきと幸福感にひたりながら生きているのか、それとも時には退屈だったり辛かったり大変なことのように感じながら生きているのか、自分自身を省察してみる必要があります。

愛する神様と共に歩む生活は、絶対に退屈ではありません。神様の御言葉を聞く説教の時間も、神様との対話の時間であるお祈りの時間も、神様を愛する心があれば、決して退屈だったり長く感じることはありません。神様を賛美することも喜びで、神様に礼拝をささげることも喜びです。聖書を読んでいても、愛する神様からの手紙だと思えば、絶対に付け加えたり取り除いたり歪曲させたりせず、心の底からその御言葉を受け入れるようになります。また、愛する神様が私たちに福音を委ねてくださったので(一テサ2:4)、どんな環境や状況に置かれたとしても、楽しみながらその業をすることができるはずです。

神様を愛せなかったイスラエルの民

3500年前、神様はイスラエルの民と共に歩まれました。エジプトを出た後、荒れ野に入った彼らがカナンに至るまで、昼は雲の柱、夜は火の柱で導いてくださり、困難が生じるたびに敵を退けてくださいました。天から「マンナ」という神秘的な食べ物も降らせてくださいました。このような驚くべき御業をお見せになりながら「私があなたたちといつも共にいる」という事を常に悟らせてくださいました。

イスラエルの民は毎日、幕屋の上の雲の柱や火の柱を見ることで、神様の臨在を自分の目で確認することができました。しかし彼らは、荒れ野での生活を退屈にしか感じられませんでした。「なぜ、早くカナンの地に行けないのか?」、「なぜ来た道を、またしても引き返さなくてはならないのか?」と不平を並べたてました。愛する方と歩む道なら短く感じられたはずですが、彼らの心の中には神様への愛がなかったのです。いつも不満だらけで、偶像崇拝など神様が忌み嫌われることを思いのまま行った彼らは、結局滅ぼされてしまいました。

兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。…しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。 一コリ10:1-7、10-11

イスラエルの民は、神様と共に歩みはしたものの、「愛する神様」と共に歩んだのではありませんでした。したがって、食糧がなければ食糧がない、水がなければ水がないと不平を言い、40年という荒れ野生活をひたすら不満一色で塗りつぶすしかありませんでした。

ただヨシュアとカレブの心は、彼らとは違っていました。彼らの心の中には愛する神様がおられたので、彼らは荒れ野の道を全く退屈に思ったりせず、いつも信仰によって神様に従い、最後には約束の地、カナンに至ることができました(民14:20-38)。

このような歴史を教訓とみなして、今信仰の荒れ野の道を歩んでいる私たちの姿を振り返ってみましょう。愛する人と一緒に歩む道なら、どんなに遠くても短く感じるものです。もし天国へ行く道が遠く感じられるようなら、まずは神様を愛する心で私たちの胸をいっぱいに満たすことからしてみましょう。

愛する神様と共に歩む

二千年前、イエス様は復活なさった後、ペトロの前に現れ「あなたは私を愛しているか?」と尋ねられました。

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 ヨハ21:15-17

イエス様は御自分を三度否認したペトロに、御自分を愛しているかと三度尋ねられました。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。イエス様は「あなたがわたしを愛しているなら、わたしの小羊を飼いなさい」と頼まれました。

その後ペトロは、神様の小羊である聖徒たちの世話をすることに、渾身の努力を傾けました。愛する神様から頼まれたことだったからです。ついにネロ皇帝の迫害により十字架の刑を受ける際にも、ペトロは自分を逆さにして十字架につけるよう懇願したと言います。イエス様のように、頭を上にした状態で十字架につけられる資格などない罪人だからという理由でした。ペトロはそれほどまでにイエス様のことを、この上なく愛していました。

私たちもやはり神様を心の底から愛して、信仰の先祖たちが歩んだ福音の道を歩まなければなりません。神様は私たちにも、サマリアと地の果てまで福音を伝えるようにと頼まれました。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 使1:8

宣教とは、愛する神様が私たちに下さった尊い「愛のお願い」です。そのお願いを頼まれた者ならば、当然成すべきことです。しかし、取り巻く環境や条件を口実にして福音を伝えることをためらったり、福音の仕事に喜びや楽しさが感じられないとすれば、自分の信仰を再整備し、急いで信仰の油を満たす必要があります。神様を本当に愛しているなら、神様に頼まれた御言葉はすべて喜んで実行できるようでなければなりません。

神様を愛しなさいとおっしゃった理由

このように、福音の宣教者たちが持つべき最も重要な心構えは、神様への愛の心です。イエス様は心と精神と思いを尽くして神様を愛することが、最も重要な第一の掟であるとおっしゃいました。

そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 マタ22:35-40

神様が、私たちから愛されたくてこのような掟を下さったのではありません。全宇宙の主人であられる神様が何が足りなくて、塵のように小さな地球に生きている人間から愛されようとなさるでしょうか?実際、私たちがどんなに神様を愛したとしても、神様には何の影響もありません。しかし神様を愛さなければ、私たちの視線は自然と死の道の方に向かってしまいます。まるでそこに喜びや楽しみ、快楽があるかのように、サタンがいつも私たちの目を欺いて惑わすからです。

子供たちが永遠に続く地獄の刑罰を受けるようになるのではないかと心配なさる神様が、私たちを救うために下さった御言葉が、「神様を愛しなさい」という掟です。神様を愛すれば、少なくとも神様が忌み嫌われることはしなくなり、結果的に地獄へ行くような行動は避けるようになります。ですから、他のどんなことよりも第一に神様を愛しなさいとおっしゃいました。律法全体と預言者は、この掟に基づいているとおっしゃった第一の掟は、私たちが救われる上で最も基本となる項目であり、必須条件であると言えます。

しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。 一コリ2:9

神様は私たちを、この上なく愛していらっしゃいます。天の栄光の御座も捨てられ、御自分の命を私たちの代わりに差し出されるほど、私たちを愛していらっしゃいます。神様が私たちをどのくらい愛されたのか、聖書の教えを通していつも反芻し、果たして自分が今、神様をどのくらい愛しているのかについても振り返ってみてください。

神様が、愛する子供である私たちのために準備してくださっている世界は、私たちが今まで一度も目で見たこともなく、耳で聞いたこともなく、心の中に思い浮かびもしなかったほど、うっとりとする素晴らしい世界です。そんな天国で栄光の冠を授けてくださるために、神様は天で罪を犯してこの地に追い出されて来た私たちのすべての罪を覆ってくださり、永遠なる天国に帰ることのできる道をお許しくださいました。神様に対する愛、これ一つさえ私たちが正しく心に抱いているなら、神様はすべての道を開いてくださいます。

神様を真心で愛する者になろう

イスラエルの3代目の王、ソロモンの時代に二人の女性が一人の赤ちゃんをめぐって、それぞれ自分の子供だと主張したことがありました。ソロモンは赤ちゃんを二つに裂いて、半分ずつ二人の女性にわたすようにと命じました。すると一人は「私のものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言ったのに対し、もう一人の女性は「私のものにならなくてもいいから、この子を生かしたままこの人にあげてください」と言いました。ソロモンは彼女たちの行動を見て、我が子をこよなく愛する本当の母親がどちらなのかを見抜きました(王上3:16-28)。

このように、愛する心というのは行いを通して表に現れます。神様は私たちの行いを通して、本当に神様を愛する人と愛していない人を選り分けられます。神様の御言葉を楽しそうに調べているか、神様が歩まれた道に従いながら失われた兄弟姉妹を捜す仕事に幸せそうに励んでいるか…。これらすべてのことにおいて、果たして神様への愛がある上で臨んでいるのか、ぜひ点検してみてください。

3500年前、荒れ野の道を歩んだヨシュアとカレブは、神様を知るだけにとどまらず愛していました。愛する神様が心の中にいらっしゃるので、40年間、不毛の荒れ野の道を歩いても退屈ではありませんでした。神様がお命じになったことなら何でも喜んで実行し、神様がおっしゃった御言葉なら他の誰の言葉よりも最優先させました。その結果、彼らは乳と蜜の流れるカナンの地に入ることができました。

今の時代、“霊”と花嫁と共に歩んでいる私たちの信仰も、こうでなければなりません。時に困難に見舞われても、エロヒム神様に感謝しながら、いつも平和と喜び溢れる信仰の時間を作りだしていきましょう。喜んで宣教し、喜んで御言葉を調べ、喜んで祈り、喜んで兄弟愛を分かち合い、喜びと感謝の歌声が止むことのない、預言の御言葉どおりのシオンを作っていきましょう(イザ51:3)。神様を愛しなさいとおっしゃった、神様の偉大なる御心を心に深く刻み込み、心と精神と思いを尽くして神様を愛する中で、永遠なる天国に悠々と入っていけるシオンの家族となられますようお願いいたします。