先日、教会の家族たちと「忙しいお母さん」という題目の写真を見ました。あるお母さんが子供を脇の下に挟むように抱いたままガスレンジの前で料理をし、抱かれている子供は母親の耳と肩の間に挟まれている受話器を取ろうとします。そのそばにはもう一人の子供が立ったままきょとんとして母親を見ています。写真の中のお母さんはたくさんの仕事で辛そうに見えますが、最善を尽くしてすべてをやりきっていました。
多数の兄弟姉妹たちが写真の中のお母さんに多少の圧迫感が感じられると言って助けが必要に見えるといいました。しかし、母親である私の観点は違いました。私は心の中で写真の題目を「母の天国」だと名付けて鑑賞しました。
私が見るには母親に抱かれている子供は自分の足で十分に立っていられるほど大きい子でした。たぶんお母さんが子供を抱っこしていたかったのだと思います。抱かれている子供は母親の受話器を取ろうとして母親を邪魔しているようですが、実は母親が料理に集中できるように受話器を持ってあげようとしているように見えました。もう母親を手伝えるほど大きくなったのですから。母親のそばに立っている子供は母親に自分の助けが必要か聞いているように見えました。母親がたくさんの仕事をしているのが見えたからです。
「私の子供がいないと明日は待つ価値がなく、昨日は憶える価値がない」という言葉があります。子供のいたずらや要求事項などがお母さんを辛くさせるように見えますが、実はそうではありません。子供の面倒を見ることはお母さんの喜びであり、お母さんが存在する理由です。子供は言い表すことのできない喜びと愛でお母さんを慰めます。子供に対するお母さんの愛は無条件的で、どんな状況でも、いくら年を取っても子供はお母さんにとって負担をかける存在ではありません。お母さんが子供を通して感じる喜びは決して減りはしません。
写真を見ていて、息子を大学にやってから経験した「空の巣症候群」が思い浮かびました。空の巣症候群は、子供が進学や経済的な独立などの理由で家を巣立って行くとき親が感じる悲しみや寂しさを意味します。肉の理の中でも子供との別れがそれほど苦痛なのに、数多くの子供たちをとても長い時間失われた天の母の心情はどうでしょうか?天の母の苦難と苦痛に無関心だった自分自身を反省します。
母性愛を通して天の母の愛と犠牲を悟らせてくださった神様に感謝いたします。失われた兄弟姉妹をシオンに導いて天の母の苦難の荷を分担できる成熟した子供になります。