「わたしは既に来ました」というキリストの御声を伝えるシオンの家族たちの鬨の声が、世界各地から聞こえてきています。世の人々は、いったい誰がどこに来たのか知りたくて、多くの関心を見せています。
世の人々が待ちわびている神様が既に来られたことを、早く知らせてあげましょう。いつどこへ来られたのか、なぜ来られたのかも知らせて、神様を受け入れることができるように案内することが、一足先に神様を受け入れた私たちのするべき仕事です。
「わたしは既に来ました」とおっしゃった神様の御声をもっと声高に伝えて、神様の栄光を悟る光を世界のすみずみまで照らしてみましょう。立ち上がって光を放つその時に、闇の勢力は退き、神様の子供たちは光の中心に向かって進み出で、この世をあっと言わせる神様の福音の御業が成就されるはずです(イザ60:1-22)。
現在、キリスト教徒は、地球上の人口の中で相当な割合を占めています。その数多くのキリスト教徒たちはイエス様の再臨を待ち望みながら、今も空を見上げています。「雲に乗って来られる」と預言された再臨イエス様をお迎えしたいと願っているからです。
いくら空を漂う雲を見上げていたとしても、神様は既にこの地に来られました。来られて「私は既に来た」とおっしゃっているにもかかわらず、世はその方を知ることができずにいます。
2千年前にも、同じことが起こりました。当時のユダヤ人は、預言者たちの預言を通して、メシア(キリスト)がこの地に来られることを知っていました。彼らは、メシアが来られたら自分たちをローマの圧制から解放し救ってくださると信じ、預言されたメシアを切実に待ち望んでいました。ところがイエス様がこの地に来られた時、彼らはメシアであられるイエス様を受け入れることができませんでした。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 ヨハ1:1
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハ1:10-14
言であられる神様が、肉となって私たちの間に宿られると、聖書には記録されています。言い換えれば、神様が人間の姿でこの地に出現されたのです。
それにもかかわらず、世の人々はその方を悟ることができませんでした。既に来られて、預言されていた数多くの事柄を成就しておられたにもかかわらず、「私は神様を信じています」と豪語していた当時の宗教人たちは、この地に来られたキリストを受け入れることができず、ただ空を見つめてばかりいました。
彼らは、メシアが来られる前にまずエリヤが来て道を備えることを、聖書の預言を通して知っていました(マラ3:1、3:23-24参考)。しかし、エリヤが火の馬と火の戦車に乗って昇天したので(王下2:11)、来ると預言されていたエリヤがこの地に来る時は、きっと昇天した時と同じ姿で火の戦車に乗って降りてきて、その次にメシアが天の雲に乗って栄光に包まれて来られるのだとばかり思っていました。
彼らが気づかないうちにエリヤも来て、メシアも来られました。彼らが天を見つめている間に、既にみどりごとして誕生され、エリヤはヨルダン川で叫び、メシアは忽然と神殿で御言葉を証しておられたのです。
そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」 マコ9:11-13
ここでイエス様が触れておられるエリヤは、浸礼者ヨハネのことを指しています(マタ11:10-14参考)。来ると預言されていたエリヤは既に来たのですが、人々は彼をエリヤとして扱いませんでした。なぜなら浸礼者ヨハネは、母エリサベトの母胎から生まれたにすぎず、天の火の戦車に乗ってこの地にやって来たのではなかったからです。彼らの固定観念の中のエリヤを待ち望んでいたため、浸礼者ヨハネをエリヤとして認めようとせず、エリヤを認めないので、メシアも当然まだ来ていないと結論づけました。その結果、既に来たエリヤも、既に来られたメシアも、彼らは受け入れることができませんでした。
神様は彼らの予想を裏切って、肉体を持った人間の姿で誕生されました。全宇宙を統治される聖なる偉大な神様が、民からの歓迎もない中でちっぽけなこの地球に臨まれたのは、ひとえに「人類を救う」という一念のためでした。
盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 ヨハ10:10
キリストがこの世に来られたことは、人類歴史上最も重要かつ偉大なる事件でした。神様が直接来てくださったことで、人類には罪の赦しと救いの道が開かれ、永遠の命が与えられるようになったのです。
神様ご本人が「わたしは既に来ました」「命を与えに来ました」と呼びかけられましたが、あれだけ数多くの人がいても誰もそれに気づきませんでした。命を与えに来られた神様を彼らが受け入れられなかった理由は、彼らが神様に属した民ではなく、世に属した人々だったからです。そしてもう一つの理由は、神様が天の栄光を包み隠した状態で、人の姿で彼らの前に出現されたからです。
神様は、すべて神様がご計画なさったとおりに、福音を進めながら、御業を成していかれます。イエス様の行いの一つ一つが、実はすべて聖書の預言を成就するためのものでした。この地に誕生される時も、預言者によってはるか昔に予告されていたように、おとめの体を借りてベツレヘムでお生まれになりました(イザ7:14、ミカ5:1)。また、十字架で亡くなられる瞬間についてまでも、聖書に預言されていました。イエス様が十字架にかけられる700年前に、預言者イザヤはメシアが神に逆らう者たちと一緒に亡くなられ、富める者と共に葬られると預言していました(イザ53:9)。この預言どおり、イエス様が十字架にかけられた時、左右の二人の強盗と共に亡くなられ、亡くなられた後は金持ちだったアリマタヤのヨセフが所有していた墓にその遺体が葬られました(ルカ23:32-33、マタ27:57-60)。
それにもかかわらず、人々は預言に目を注ごうとはしませんでした。三十歳で浸礼を受けて福音の御業を始められても、マルコの家の二階の広間で過越祭のパンとぶどう酒を手に、「これがわたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)と宣布なさっても、偶然の出来事だろうと思っただけで、それが聖書の預言と一致する大事件である事実を悟った人はいなかったのです。預言者エレミヤを通して、「わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」(エレ31:31)と言われたその道をそのまま歩んで行かれたにもかかわらず、世の人々はそれに気づきませんでした。
「人間がどうして神様になれるというのだ」これが、2千年前も今も、神様を排斥する人々の持つ共通した観点です(ヨハ10:30-33)。人類を救うという偉大な使命を持ってこの地に来られた神様を、人々は自分たちと少しも変わらない、ただの人間として扱いました。そのため、御自分の民のところに来てくださった神様を、当の民が受け入れようとしないという、とても嘆かわしいことが起こってしまったのです。
2千年前にキリストの栄光を妨げたサタンが、現在も同じ手法で妨害しています。過去、初臨当時の状況と今の時代の再臨の状況は、ぴったり一致しています。
現在も数多くの人々が、再び来られるイエス様を切実に待ちわびています。しかし彼らが空を見上げている間に、神様は肉となって再び人の姿で登場なさいました。
また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。 ヘブ9:27-28
キリストは最初にこの地に来られた時、人々の思うままにあしらわれながらも、預言された道を全うしつつ歩まれ、ついには預言されたとおりに十字架で亡くなられ、人類を縛りつけていたすべての罪の鎖を断ち切ってくださいました。そしていったん天に戻られた後、この地に再び来ることを約束されました。2千年前に御自身の貴い血で立ててくださった新しい契約が、宗教暗黒時代の間に姿を消し、キリストが二度目に出現されることなしには、誰も永遠の命を得ることができず、天国の救いに向かって進み出ることが不可能になってしまったからです。
初臨の時と同様に、再臨についてもそのすべての行跡が聖書に予告されていました。今の時代に、神様が再びこの地に来られるということ、そして来られる時には東の果ての国に来られて、命の実の真理である新しい契約の過越祭を携えて来られ、また命の実の実体であられる天の母を子供たちに知らせてくださるという内容まで、聖書には既に預言されていました。
シオンの王がいなくなり指導者が亡くなったので、シオンの子供たちは子を産む女のように苦しむという御言葉を通して、先に旅立たれるということも記録されています(ミカ4:1-9)。ダビデの王座の預言を成就されるために37年間にわたる福音の道を歩まれるという預言どおり、天の父は三十歳になられた1948年、いちじくの木で象徴されたイスラエルが独立したその年に浸礼を受けられ、福音の御業を始められてからちょうど37年目にあたる1985年に亡くなられました(サム下5:4、ルカ3:23、ルカ1:32、マタ24:32-33参考)。
世の人々は、これらはすべて偶然にすぎないと思っていますが、聖書のどんな預言も偶然というものはなく、神様が成していかれる「必然」です。“霊”と花嫁がシオンに登場されて、原型をとどめないほど損なわれてしまっていた新しい契約の真理を取り戻してくださいました。また、私たちは現在、神様が御自ら建てられると預言されたシオンに来て過越祭も守り、安息日も守り、三次の七つの祭りも守っていますが、この驚くべき御業もすべて聖書の預言どおりに成就されているにもかかわらず、世の人々はそれが理解できず、これらがあたかも偶然かつ日常的な事のように捉えています。預言というのは、どれもその時期に合わせて成就されるのですが、世はそのことに注目できずにいるのです。
再臨キリストが既にこの地に来られましたが、人々は依然として空を見上げてばかりいます。雲に乗って来られるというので、誰もが空しか見ていません。しかし、その方はおっしゃいました。「わたしは既に来ました。シオンにいるので、シオンに来て私と出会ってください」と。
シオンを仰ぎ見よ、我らの祝祭の都を。あなたの目はエルサレムを見る。それは安らかな住まい/移されることのない天幕、その杭は永遠に抜かれることなく/一本の綱も断たれることはない。まことに、そこにこそ/主の威光は我らのために現れる。…まことに、主は我らを正しく裁かれる方、主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。 イザ33:20-22
これが、聖書が今の時代、二度目来られたキリストに出会わせるため道案内をしている預言の御言葉です。神様は私たちを救うために既にこの地に来られ、シオンにいらっしゃいます。世はその方がどなたか分からずに好きなようにあしらったとしても、神様はこの地に来られて救いの御業を繰り広げておられます。
人類を救うためにこの地に二度目に来られる時は、お一人ではなく、父なる神様と母なる神様が共に来られると予告されました。
“霊”(聖霊)と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。 黙22:17
聖霊であられる父が、人類を救うためにお一人でこの地に来られたのではなく、霊の花嫁が共に来られて、人類に「命の水を受けに来てください」と呼びかけておられる場面を確認することができます。
今この時代、父・安商洪様は、既に預言に従ってこの地に来られました。再び来られた父なる神様は、人類を救うために、全人類が必ず知るべき母なる神様についての真理を私たちに教えてくださいました。父だけでなく、母も預言に従って来られました。「わたしは既に来ました」「わたしも既に来ました」“霊”と花嫁が既に来られて、人類に「命の水を飲みなさい」とおっしゃいました。
聖霊神様は既に来られたのですが、世の人々が知らないだけです。そして花嫁も既にこの世に来られましたが、世の人々が分からないだけなのです。預言はこのようにすべて成就したのに「私は神様を信じています」と豪語している人々が、神様を知らずにいるのです。
初臨の時と同じように二度目にこの地に来られた時も、神様は聖書に記録されたとおりに、予定された福音の生涯を歩まれました。その一つ一つの行跡は、ただ偶然に成就されていったものではなく、神様は今この瞬間にも預言の階段を踏みしめておられます。
私たちの天の父と母は、既に来られました。命を与えるために来られました。その御名を信じることで子となる資格を得た私たちは、私たちを救うためにこの地に来られた天の父と母に感謝をささげ、既に来られた神様を速やかに世界中に証ししなければなりません。
天のエルサレム神殿の建築材料となる失われた兄弟姉妹を、もうひと息頑張って、すべて捜し集めましょう。「わたしは既に来ました」と切なく呼びかけておられる天の父と母の御声をサマリアと地の果てまで力強く伝え、災いと罪悪の中で苦しんでいる数多くの魂を悔い改めさせ、永遠なる天国に導くために心と思いを尽くしてくださいますよう願います。