聖書の安息日は土曜日なのに、日曜日に礼拝をささげる教会が多い理由は何でしょうか?

4242 照会

聖書の安息日は七番目の日なので、正しくは土曜日です。初代教会は聖書の教えどおり安息日を聖別し守りました(使17:2、18:4)。

それなら今日、大多数の教会では、どうして日曜日に礼拝をささげているのか、その理由を調べてみます。

日曜日とローマの太陽神崇拝

エルサレムから始まり復興した初期キリスト教は、イスラエルから近い小アジア地域に続きマケドニアとローマにまで伝えられました。その過程で避けられなかったことが、ローマ宗教との摩擦でした。

ローマ皇室は、ユダヤ教を信じるユダヤ人たちのことを非常に嫌いました。多神教的宗教観を持ったローマ人たちの観点では、エホバという唯一神を信じるユダヤ人を理解することができなかったため、また彼らが信仰を理由にローマの命令に従わなかったためです。

ですが、キリスト教もやはりイエス様を救い主として信じる、唯一神信仰である上、ユダヤ人たちと同様に七番目の日を安息日として守るので、ローマ人たちにはキリスト教がユダヤ教の一分派に見えました。それゆえ、迫害を避けることができなくなったローマ教会(ローマにいるキリスト教)は、キリスト教がユダヤ教と違うということを認識させようと努め、その過程でローマ人たちが守る日曜日を礼拝日として受け入れるようになります。

日曜日(Sunday)は、ローマミトラ(太陽神)教の太陽神崇拝日です。B.C.1世紀頃ローマに入って来たミトラ教は、ペルシアのゾロアスター教から派生した宗教で、太陽神ミトラが「征服不可能な神」、また「不滅の若い神」として描写され、主に軍人たちによって熱烈に信奉されました。キリスト教がローマに伝えられる頃には、帝国と皇帝の守護神に格上げされ、ローマで一番影響力ある宗教として定着した状態でした。ローマ教会は、ミトラ教で守る日曜日を礼拝日として受け入れることで、ローマ人たちの迫害から脱しようとしたのです。

コンスタンティヌスと日曜日休業令

2世紀頃、日曜日礼拝を受け入れたのは、ローマ教会とその影響下にある一部の教会だけで、エルサレムを中心とした東方教会は、聖書の教えどおり七番目の日である土曜日を安息日として守りました。しかし、A.D.313年、コンスタンティヌス皇帝がすべての宗教を同等に認めるという内容のミラノ勅令を下してから、キリスト教は一大転機を迎えました。

コンスタンティヌスは、ミラノ勅令頒布以後、聖職者たちに各種特権を与えたり、教会設立を支援するなどキリスト教を擁護する政策を広げて行きます。かと言って、彼が完全にキリスト教に改宗したのではありませんでした。キリストを自分が一番好きな太陽神ミトラと同一の神として理解した彼は、死ぬまで「ポンティフェックス・マクシムス(Pontifex Maximus)」というローマ宗教界の最高祭司職位を所有しました。結局、帝国全体を一つに統合する政治的目的でキリスト教を選んだと見ることができます。コンスタンティヌスはこのような思想を土台とし、今後日曜日に仕事を休む法令を宣布します。

これが太陽崇拝日が、キリスト教の礼拝日に変わるようになった過程です。A.D.321年に頒布された日曜日休業令は、ローマ教会の位置をより確固たるものにする結果をもたらしました。皇帝の権威によって、帝国のすべての民が日曜日に強制的に休むよう規定することで、安息日を守って来た東方の教会までローマ教会の方式どおり従うしかありませんでした。もちろん、真理を守ろうとした人々は、砂漠や山の中に隠れて過ごして安息日礼拝を固守しましたが、日曜日礼拝が教会全体に拡散することを阻むことはできませんでした。このように始まった日曜日礼拝は、今日まで続けられてきました。

しかし、多くの教会が守っているからと言って、太陽崇拝日である日曜日が神様の礼拝日になることはありません。どんな理由によっても、人の任意で神様の掟が変更されてはなりません。

この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証する。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる 黙22:18-19

預言によってこの地に来られた神様は、闇の中に隠されていた真理を天下に現され、私たちが守らなければならない真の礼拝日を教えてくださいました。神様の教会で、七番目の日である土曜日に聖別し守っている安息日礼拝は、再臨キリストが取り戻してくださった純粋な初代教会の真理です。