神様は私たちをご覧になっていらっしゃる

1475 照会

聖書の預言どおりに神様の御言葉が全世界に速やかに宣べ伝えられています。真理が伝えられる速度に応じて、多くの群れが集まりシオンに入って来るので、まだキリストの教えを完全に身に付けられず、世で学んだ習慣どおりに行う方もたまにいるようです。

真理の中に入って来た私たちは、神様の内で少しずつ世の垢を落として、浄化されながら、神様が切に望んでおられる正しい品性と行いを身に付けた、完成品の姿へと変わって行く過程にあります。子供たちが完全に新たに生まれ変わることを願われる神様の切なる御心を、聖書を通して調べてみましょう。

すべての人をご覧になっておられる神様

シオンのある学生部の姉妹が友達を真理の内に導きました。ところが、友達が学校で、今までの習慣どおり、ずけずけとものを言い、はばかりなく行動するのを見て、もどかしい気がしたそうです。その上友達は「見ている人もいないのに、大丈夫だ」と言い、大したことではないと考えるのでした。そんな友達に姉妹は「神様が私たちの監視カメラ」だと言ってあげたそうです。

短いですが、凝縮されたこの言葉が、新しい聖徒だけでなく、信仰生活をしているすべてのシオンの家族の心に改めて警鐘を鳴らすのではないかと思います。

以前は、目撃者さえいなければ、犯罪者が自分の罪を隠すこともできたと言います。しかし、最近は監視カメラが多く普及し、24時間現場を監視しているので、事件の是非を見極めたり、犯人を逮捕するのに決定的な役割を果たしています。正しい生活をしている人たちには何の問題にもなりませんが、犯罪者たちにとって、監視カメラは、それだけ怖い存在であるしかありません。

霊の理もそれと同じで、私たちの行為は神様の御前にことごとく記録されています。神様はすべての人をご覧になっていらっしゃいます。

主の企てはとこしえに立ち/御心の計らいは代々に続く。いかに幸いなことか/主を神とする国/主が嗣業として選ばれた民は。主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり 詩33:11-13

神様は天から、すべての人を一人一人ご覧になっていらっしゃいます。肉に属している人の考えでは、神様が本当にすべてご覧になっていらっしゃるのか疑問に思うかも知れません。そのような人は、時に、誰も見ていないようだから、暗いから、この空間には自分しかいないからと思って、罪を犯す過ちを仕出かしたりします。しかし、どんな所でも神様はご覧になっていらっしゃいます。

心の思いや考えまで見通される神様

神様が人をご覧になっていらっしゃるのは、救いの道に導かれて、間違った考えと行動を直してくださるためです。また、各自の考えと行いに応じて報いてくださるためでもあります。それで、人の悪い行いと善い行いはもちろん、心の中までもご覧になっていらっしゃいます。

神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 詩53:2-3

目に見えないので、神様などないと思う人たちが一番愚かな者たちです。彼らの愚昧な考えと違って、神様は天からすべての人たちを見渡され、ご自分を求める人はいないかと探されて、彼らの真実なる祈りに耳を傾けられます。全人類に対する関心と愛を持って、救いの御業を進められ、導いて行かれるのです。

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 ヘブ4:12-13

軍事用として開発されたナイトビジョン(暗視鏡)は、微かな光と赤外線を増幅させ、非常に暗い所でも物体を識別し、人の動きを把握することができるそうです。被造物である人間ですら、そのような暗闇の中を透視する能力があるのなら、創造主である神様の御前に、はっきりと現れないものが一体どこにあるでしょうか?

神様は目に見える行いをご覧になっていらっしゃるだけではなく、目に見えない心の思いと判断まで、すべて見通していらっしゃいます。ですから、神様に造られた万物の中で、その御前に明るみにならないものはないのです。

神様の御前に何も隠すことができない

神様は私たちがいつ、どこにいても、置かれた環境や状況に拘わらず、御自分の御心に従って善を行うことを願っておられます。表に現れる行いだけではなく、私たちの心の奥までもすべて見通しておられるので、私たちの間違った部分は正しく直して下さり、足りない部分は満たして下さって、いつも私たちが祝福を受けられる道に導かれます。神様がご覧になる時に、正しい心構えと行いで、信仰の道に従ってこそ私たちに救いが与えられます。

見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。… エレ16:16-18

わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。 エレ23:23-24

神様が人の行いをご覧になっていらっしゃるので、罪人が神様の目を避けて隠れ場に身を隠すことはできず、その罪を隠ぺいすることもできないとおっしゃいました。人の目は避けることができるかも知れないが、いったい誰が天地に満ちておられる神様の目を避け、隠れ場に身を隠すことができるでしょうか?

預言者ダニエルも、ネブカドネツァル王の夢を解釈するに先立って、神様が奥義と秘儀を現し、いくら闇に潜んでいるものでも、すべてご存知である方だということを、はっきりと表しています。

ダニエルは家に帰り、仲間のハナンヤ、ミシャエル、アザルヤに事情を説明した。そして、他のバビロンの賢者と共に殺されることのないよう、天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈った。すると、夜の幻によってその秘密がダニエルに明かされた。ダニエルは天の神をたたえ、こう祈った。「神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。神は時を移し、季節を変え/王を退け、王を立て/知者に知恵を、識者に知識を与えられる。奥義と秘義を現し/闇にひそむものを知り/光は御もとに宿る。 ダニ2:17-22

宇宙から見下ろした地球は、ごく小さな一つの点に過ぎません。人々は地球というとても小さい空間を、とても広い所と見なして、神様の御前に犯した過ちを隠すことができると思っています。しかし、これは大変愚かな考えです。

人の目には、密かに隠れればそれでいいように見えますが、神様の御前では、すべてがそのままさらけ出されているからです。神様はまったく現れていないことすら、見抜かれる権能を持っていらっしゃる方です。その御前では、誰一人として自分を隠すことができず、何一つ隠ぺいすることができません。

一人一人の行いに応じて報いてくださる神様

神様が私たちをご覧になられるのは、私たちに対する愛によるものです。神様は私たちの髪の毛まで一本残らず数えられているほど、私たちを愛しておられ、私たちよりも私たちをもっとよくご存知です(マタ10:30)。私たちは神様にとって、関心ごとのすべてです。そのような関心と愛を受けている子供として、私たちは永遠なる神様の御言葉によって、毎日のように新たに生まれ、変えられるように努力してみましょう。

最後の裁きの日に、神様は一人一人の行いに応じて、正しい人はその正しい行いに応じて、悪い人は行った罪悪に応じて報いてくださるとおっしゃいました。

また、この女の子供たちも打ち殺そう。こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう。 黙2:23

わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 黙20:11-14

最後の時は、死者たちがそれぞれ自分の行いに応じて、書物に書かれていることに基づき、裁きを受けます。悪い者たちは、結局その行いに応じて、火の池に投げ込まれるようになるのです。自分しか知らないと思ったことまでも、神様の本にはすべて記録されていて、一人一人の一挙手一投足まですべて神様の御前にさらけ出されるので、神様の裁きの座の前に立てば、誰も自分の罪を否定できません。

それでは、私たちは悪人として裁かれ処罰を受けるよりは、善い心と聖なる信心深い行いで、正しい人としての栄光にあずかるべきではありませんか?

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」 マタ16:26-27

イエス様は、栄光に輝いて天使たちと共に来られる時に、人それぞれの行いに応じて報いてくださることを約束されました。福音に力を尽くした人たちには、その行いに応じて祝福を下さるはずだし、絶えず祈った人たちにもそれに相応しい祝福を下さるはずです。聖書には連合と和合を成すために、自分を犠牲にして配慮した人たちに下さる祝福も記録されています。

神様がいつもご覧になっていらっしゃることを忘れる時に、罪が生じます。神様を信じる聖徒たちなら、私たちに目を注いでおられる神様のことをいつも考えて、日常生活の大小の行いと言行においても、神様の子供らしい、信仰を持つ者としての姿勢を保持できなければなりません。神様の御前にすべてが明らかに現われるという事実を悟る人が、真の知恵深い人です。

預言どおりに天国の福音が全世界のあらゆる民に宣べ伝えられている今、私たちはこの地で享受する瞬間的な平安と安楽に浸っていないで、私たちの人生をどのようなことで満たして行けば天国に入城できるのか考えなければなりません。神様が喜ばれることに、心と精神と思いを尽くして、永遠なる天国に帰るその日に、神様に善良だと証ししてもらえる神様の子供たちになりましょう。

短い人生の中で私たちが果たすべき使命

昔の先祖たちは、短い私たちの人生を「草露のような人生」と表現しました。草の葉の上のしずくが、日が昇れば間もなく消えてしまうように、私たちの人生が本当に虚しいということです。そのようにとても短い人生なので、この地の、しばらくすればすぐに消えてしまう事柄に心を奪われずに、永遠なる天国のために心を注ぎなさいと、神様は子供たちに悟らせてくださいました。

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 マタ28:18-20

イエス様は私たちに「すべての民のもとに行って、私があなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と頼まれました。肉の人生が瞬間と刹那に過ぎず、その後には、永遠なる天国という本質的な世界が待っているということを正しく悟った人は、神様の命令に従うようになっています。このような人たちには、信仰を持たずにはいられない義の経験をさせてくださいます。

反面、人生に縛られて、その人生が永遠であるかのように思う人には、その心に信仰も、天国への望みも生じません。そうであればあるほど、さらに現世的なものだけに心を奪われるしかありません。神様の御心を悟った人と、そうでない人の違いが、まさにここにあるのです。イエス様が十字架に釘付けにされた時、左右には二人の強盗がいました。

人生の最後の瞬間、二人の悟りには画然とした違いがありました。左側にいた強盗は短い人生に未練を抱き、群衆たちと結託してイエス様をののしりました。反対に、右側にいた強盗は、自分の罪を悔い改めて救いを切に求めました。彼は瞬間の危機を免れることよりも、永遠なる世界を望んで行動したからです。

歴史の流れを大きく変えた征服者アレキサンダーも、世界最大の帝国を建設したチンギス・カンも、自ら皇帝になったナポレオンも、今はもう存在していません。その当時は、この世のすべての権力を握っていたかも知れませんが、時間が過ぎたら、そのすべてがまるでなかったことのように消えてしまいました。

演劇が終われば俳優が舞台から降りて来なければならないように、一世を風靡した英雄も、結局はみんな一握りの土に返ってしまうのです。

私たちの人生がそれほど短くて限りがあるということを、もう一度考えながら、救いを得る相続人である私たちを真理の道、義の道に導かれるために、神様がご覧になっていらっしゃるということを悟る子供たちになりましょう。神様の栄光を現す子供の姿で、天の監視カメラに記録されなければならないでしょう。

神様が導かれる救いの道から一人も落伍せず、美しい信仰の業績を積んで、行いに応じて報いてくださる神様に、永遠なる天国で大きな賞を授かるシオンの家族になられるように願います。