我々に残された日々はどれくらいなのか

26,838 回視聴

この世には多くの人々が生きていますが、どれくらいの歳月が自分に残されているのか正確に把握して生きている人はほとんどいません。大多数の人々は自分に与えられた一日一日を、この地での人生のためだけに消費しています。その一方で、天国という永遠なる世界を見つめながら、そのために生きている人もいます。

さて、私たちはどうでしょうか?ただ天国をおぼろげに心に描き、漠然とした信仰の道を歩んでいないか、振り返ってみなければなりません。何のためにどう生きていくべきか、私たちが選択すべき生きる目標と方向について、一緒に考えてみましょう。

私たちの生涯の日を数えてみる知恵

『ユートピア』の著者として有名なイギリスの政治家トマス・モアは、晩年になって自分の主張を曲げなかったために投獄されました。面会に来た家族たちは、彼をこのまま死なせるわけにはいかないと「王に屈服して何とか生きてほしい」と勧めました。懇願する家族を見つめながら、モアは「もしそうしたなら、私はこの世で今後どのくらい生きられるだろうか?」と尋ねました。およそ20年は生きるのではないか、と家族が答えると、彼はこう言ったそうです。

「その短い時間を生きるために魂を売り払い、永遠に生きることをあきらめるわけにはいかない」

20年という歳月は、死後に迎える永遠なる世界で生きることに比べれば、束の間の時間に過ぎないのに、その短い時間を手に入れるために永遠の時間をあきらめることなどできない、ということでした。

このエピソードのように、私たちに残された人生の時間について考えてみる必要があります。通常、人の寿命は約70~80年です。たとえ100年生きたとしても、その歳月はあっという間に消え去ってしまう、瞬間とも言える時間です。ましてや、私たちに残された歳月はどうでしょうか?

御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて/あなたの憤りをも知ることでしょう。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。 詩90:11-12

詩編の記者は「私たちの生涯に残された日々を数えてみる知恵を得られますように」と神様に祈りました。本当に重要な御言葉です。もし、さほど残されていないこの地での生涯のために、神様を否定して信仰を放棄し、福音の使命を捨てたとしたら、その後はどんな時間を迎えることになるでしょうか?私たちに、これから生きる歳月がどれほど残されているのかを考えてみると、その時間を何のために使って生きることが、将来訪れる永遠なる世界のための賢明な準備になるのか悟ることができます。

残された人生が、ある人にとっては数十年かも知れませんが、ある人にとっては数年、数日かもしれません。そうした束の間とも言える人生のために、神様が約束してくださった永遠なる生涯を放棄するのは、あまりにも愚かな選択です。私たちの生涯の日を数えてみるという知恵ある心を得て、永遠なる天国にすべての家族が十分に入られることを願います。

目に見えない永遠の世界

この地には永遠のものは存在せず、永遠にこの地に居続けることができる人もいません。どんなに大きな権力を持った人でも、決められた時間が来れば、やむを得ず旅立たなければならないのが人生です。

わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。 詩90:9-10

神様に喜びをささげながら、私たちの生涯が過ぎ去れば良いのですが、ほとんどの人が神様の御怒りを買いながら生きているとあります。神様に喜ばれながら一生を送るよりは、罪悪に満ちたこの世での享楽を追い求めるために青春と情熱を注いでいるということです。

それも、その人生の年月がどれだけ早く流れるかというと「瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」とあります。この地で私たち一人一人に残された人生の年月を計算してみると、決して長い時間ではなく、むしろ一瞬に過ぎない短い時間だということが分かります。しかし、神様が私たちのために用意してくださっている天国での時間は、永遠で果てしなく続きます。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 二コリ4:16-18

聖書は、私たちが追い求めるものは、目に見えるこの地のものだけでなく目に見えない世界のものであり、目に見えるものは一瞬ですが、見えないものは永遠だと諭しています。神様は子供たちに、この永遠のものを選択して手に入れるために、この地で生きる時間がどのくらい残されているのか、数えてみなさいとおっしゃったのです。

永遠に続く新しい契約の働き手の使命

この地での仮住まいの歳月が長くなるにつれて、昔からの知人たちの訃報をよく耳にするようになります。肉体が土に帰ると共に、彼らが過去に持っていた知恵も財産も、権力もまた無意味なものとなってしまい、次第に人々の記憶の中から薄れていきます。しかし、この地で信仰の時間を過ごし、神様の懐に抱かれた聖徒たちの福音の行跡は、決して忘れられることのない美しい結果として残っています。神様が私たちに「新しい契約の働き手になるように」といつもおっしゃる理由がここにあります。

神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。 二コリ3:6

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 マコ16:15-16

神様は私たちに新しい契約の働き手という資格を下さり、全世界に行って、世のすべての人に福音を宣べ伝えるようにとおっしゃいました。この地には様々な職業が存在し、多くの人が一瞬に過ぎない人生を営むためにあらゆる努力をしていますが、私たちには、永遠のために僅かながらも苦労をして汗を流す機会を与えてくださったのです。

神様は私たちを新しい契約の福音の働き手として選んで召し出してくださり、世の中という仕事場に送り出されました。私たちはどんな仕事をして生きるにしても、各自の置かれた場所で神様の御心を周りの人々に知らせるべきで、伝えることから手を引いてはいけません。私たちが伝える福音を信じて浸礼を受ける者は救いを得て、信じない者は滅びの宣告を受けます。世界中のすべての民を救うという重大な使命を授かったのですから、永遠に安息する場所、天国に至る時まで、福音を伝えることに最善を尽くすべきです。

神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励ましなさい。…わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 二テモ4:1-8

一生を通して福音に身を献げた使徒パウロは、殉教を目前に控えて自分がこの世を去る日が近づいたと言いながら、残り少ない自分の生涯の日々を数えました。イエス様を否定して信仰を捨てたとしたら、牢獄から釈放されたかもしれません。しかし、パウロはそうしませんでした。この地で生きるのと、神様が約束された世界で生きるのとでは、その時間の長さに比較にならないほど大きな差があるということを知っていたからです。そのためパウロは、自分に義の栄冠が用意されていることを自負しながら、聖徒たちにも折りが良くても悪くても、とにかく御言葉を伝えることに力を入れるよう呼びかけました。

天国に希望を持つ聖徒たちの信仰

信仰の先祖たちも、この地での時間は束の間に過ぎないことを悟って、信仰の道を歩みました。

信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 ヘブ11:33-38

使徒パウロをはじめ、初代教会の聖徒たちも、福音を伝える過程で、拷問にかけられたとしても敢えて釈放を拒み、異端扱いされ様々な不利益を被っても全く意に介しませんでした。この地のすべてのものは束の間に過ぎず、今自分を迫害し嘲弄している者たちも、決められた時が来れば、皆この世を去る、ということを誰よりもよく知っていたからです。この地にもう少し留まるために、永遠なる天国で生きることをあきらめることなどできないという固い信仰があったからこそ、多くの苦難と試みも何でもないものと捉えることができました。

我々キリスト者は、このように、この地の時間と天の時間に対する時間的概念がなければなりません。この地での歳月は一瞬だという事実を忘れた瞬間、知恵はなくなり、この世の悪質な誘惑に惑わされて信仰が危険な状態に陥ります。今の生活が少し辛いからと神様を恨み、信仰をあきらめるようなことが起こってしまうのです。

この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからす。現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 ロマ8:16-18

聖書は、現在私たちが直面している苦難が「将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と教えています。これを信じていたために、初代教会の聖徒たちはどんなことがあっても天国をあきらめませんでした。「もうすぐ永遠なる天国に行くというのに、この地でキリストを否定し天国を失って、この地で何年か生き延びたところで、それに何の意味があり、どんな喜びや幸せが感じられるというのか」と、彼らは考えました。この世には手に負えない信仰だったのです。

今を生きる私たちも心の中心にこのような信仰を抱きつつ、残された人生の日々を数えながら、天国を見つめる霊的な眼を日ごとに大きく開いていきましょう。私たちの永遠なる終着駅は、天国です。将来、天国で天の父と母に仕え、世々限りなく永遠の命の祝福を享受できるようになることを絶対に忘れず、この世での仕事も誠実にすべきですが、世俗的な欲には警戒を忘れず、天国のために生きられるよう願います。

神様を喜ばせる生涯

私たちに残された人生の日々がどれくらいで、その間、何のために生きることが最も賢明なのかという問題について、神様は既に答えを下さいました。たとえ、神様を知る以前は私たちの生活が、神様の御怒りの中で過ぎ去ってしまった歳月であったとしても、これからは新しい契約の働き手としてこの世を救うことに力を注ぎ、神様に喜んでいただける生涯を生きていきましょう。残された日々がすべて過ぎてしまったその時、私たちがこの地で最も有意義な時間を過ごしていたことを確認できる日が来るはずです。

…この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 コロ1:22-25

パウロは、聖徒たちのために苦しむことを喜び、キリストの体である教会のためにキリストの苦難を身をもって、補いながら過ごしていました。その生涯をすべて終えた後、天国に帰って、神様が用意してくださった永遠なる義の栄冠にあずかることを望んでいました。このような信仰を持って生きていく福音の働き手の人生こそ、真に幸せな人生ではないでしょうか?

キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。 二テモ2:3-4

キリストの立派な兵士として選ばれたら、その人生には苦難が伴わざるを得ません。キリストの兵士として、新しい契約の働き手として召し出された私たちにとって、この世はもはや世俗的な楽しみや休息のための場所ではなく、福音の仕事場なのです。働く空間にやって来たのに休んだり遊んだりしていたら、その人は本当にその一生を、ただ主の御怒りのうちにすべて過ごしてしまうことになりませんか?苦難や困難に直面する度に、私たちに残された人生の日々がどれほどなのか考えれば、信仰の姿勢を正すことができるでしょう。

この世にいた時は、神様も天国も知らずに生きていましたが、今私たちは神様の御言葉を通じて天国で生きる方法を毎日聞いて学んでいます。シオンの子として、その永遠なる生涯のために生きながら、いまだに無意味で虚しい人生を生きている人々に、しばらくすれば消え去ってしまうこの地での人生だけでなく、永遠なる世界も存在するのだという事実を伝えましょう。天の父・安商洪様と新しいエルサレム天の母の栄光を、サマリアと地の果てまで力を尽くして証しする中で、私たちの生涯の日を数える知恵を持って、神様に喜びと栄光をより多く帰すことのできる真の信仰者としての道を歩まれるよう願います。