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浸礼と洗礼はどう違うのでしょうか?

1777 照会

浸礼は 「罪を水の中に葬る」という意味で、キリスト教信者になろうとする時、罪の身を脱いで新しい命へと生まれるために行う儀式です。 これがハングル改訳聖書には、洗礼(洗う礼式)と翻訳されています。 違いがなさそうに見えますが、ギリシャ語の中に現われた意味や礼式の意味を理解すれば、洗礼ではなく浸礼という用語が聖書的だという事が分かります。

浸礼にあたるギリシャ語 「バブティスマ()」は 「浸る、濡らす」という意味で、英語の聖書でもこの単語を翻訳せずに音訳して 「バプティズム(Baptism)」と言います。 韓国では元の意味を充分に生かすことができずに、洗礼という単語で翻訳し広く知られていますが、原語の意味を勘案すれば、浸礼(浸す礼式)と言うのがふさわしいです。

浸礼と洗礼

キリスト教関連映画や聖画を見ると、イエス様がヨルダン川で浸礼を受けられる姿や、人々が水中で浸礼を行う場面がよく登場します。 浸礼は言葉どおり 「水に浸る儀式」であるからです。

死んだ人を葬る時、土をシャベルで数回かけるだけでは葬礼が成り立たないように、罪に関係する儀式においても、何滴かの水を振りかけるだけでは罪を完全に葬ったとは言えません。 そんな理由で、浸礼を行う時、全身を水中に浸るようにして罪に対する葬礼が完全に成り立つようにしたのであり、川や海のように水の豊かな所でないなら、水を注いで体がすべて濡れるようにするのが一般的でした。

現在多くの教会が行う洗礼の儀式は、初期キリスト教が異邦地域で宣教する過程で生じたものです。 遠距離を移動する間、一口の飲み水も貴重な砂漠等の地で、福音を聞いて浸礼を受ける場合、体をすべて濡らすだけの水がないので、何滴かの水を振りかけることで代用されたのです。 このような略式浸礼は、不可避な状況でだけ許容されたのですが、 A.D.120年頃以降、水が十分な地域でさえ浸水礼式を行わず、略式で行う所が徐々に増えていきました。 (参照-教会史/イコン社発行)

旧約の割礼と新約の浸礼

… わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。 創17:10-11

旧約時代には神様と民の間のしるしとして、割礼という礼式を行いました。 この礼式が新約時代に入って変更されたものが浸礼です。

あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 コロ2:11-12

このように浸礼は神様の子どもになる聖なる礼式であり、イエス様も浸礼を受けることにより私たちに御自ら模範を見せられました(マタ3:1-17)。

救いのしるし、浸礼

宗教改革以後、信仰による救いが強調されながら、浸礼を単純に「悔い改めのしるし」 位に解釈して、してもしなくてもいい礼式として受け入れる教会が多くなりました。 しかし、神様の子どもに生まれかわって救いを得ようとする人にとって、浸礼は必ず踏むべき手順です。

信じて洗礼(浸礼)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 マコ16:16

すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(浸礼)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 使2:38

この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。 一ペト3:21

罪人にとって罪の赦しほど重要なものはないので、浸礼は御言葉を悟ったら即受けなければならない緊急を要する礼式です。 イエス様から直に教えを受けた使徒たちが、御言葉を伝えて直ちに浸礼を与えた多くの聖書の歴史は、浸礼がそれほど緊急で重大な儀式であることを教えています(使8:35-36、使16:13-15、使16:29-34参照)。 今日大多数の教会が「学習」という手続きを作って6ヶ月や1年経った後に洗礼(浸礼)を受けさせるのは、神様の御心が分からない無知から出た教えだと言えます。

再浸礼

初めて福音を伝え聞いた人々の中には、ある人々はもう他の教会で洗礼(あるいは浸礼)を受けたのに、また受ける必要があるのかと聞き返したりします。 聖書には再浸礼の歴史が記録されています。

パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。 使19:3-5

使徒パウロがヨハネから浸礼を受けた人々に、イエス様の名前で再び浸礼を受けることを勧めた理由は、その時代に来られる救い主の名前で受ける浸礼でこそ、罪の赦しの約束があるからです。 今日もこの時代の救い主が分からずに受けた浸礼は、真の救いのしるしになりません。 ですから、真の救いの約束を受けることを願ったら、真理が分からない時に洗礼(あるいは浸礼)を受けたとしても、真理がある教会で再浸礼を受ければこそ完全な救いの約束に与るようになります。

行ってすべての民を弟子にして

一つ背けば二つ, 二つ背けば三つ背くのも堂々とするようになるのが、罪人である人間の属性です。 罪に対する感覚が鈍くなれば、結局神様の御言葉さえ自分なりに解釈しながら自分の考えをまるで神様の御心であるように勘違いして聖書的なことで規定を作ったりもします。 しかし、神様の御言葉はただの一つも不義と妥協することはありません。

神様の子どもは人間的な便宜や普遍性を立てて聖書の教えに背く行為に絶対同調してはいけません。 創造主神様が賜った規定一つ一つが、皆私たちの魂の救いのための約束なので、神様の御言葉なら小さなもの一つでも従順に従わなければなりません。

神様の御恵みの中、天の子どもに生まれかわった私たちがすべきことは、神様の御言葉を悟って多くの魂に真理を知らせることです。 神様の御言葉にそのまま従って世の中の民を救いの道に導く私たちにならなければなりません。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。 マタ28:19-20