救いは私たちの神様にあります

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神様は人類に旧約は旧約どおりに、新約は新約どおりにそれぞれ違う方法で救いの教えをくださり、天国に行くことができる道を開いておかれました。旧約の中心になる内容は、神様が霊の状態で救いの摂理を働かれた記録だとしたら、新約は、肉体をまとわれこの地に来られた神様にどのように対するべきか、に関する教訓で満たされています。

聖書を調べると、時には霊でおられた神様のことさえ知らなかった人々もいれば、神様が肉をまとわれこの地に来られた時、見分けられなかった人々もいます。その反面、霊の姿である時も、肉体で来られた時も、正しく仕え受け入れて、祝福を受けた人々もいました。

私たちの魂の救いは、神様を知ることにあり、全ての救いの御業は神様が導かれるということを、この時間、聖書の御言葉を通して共に調べてみることにします。

神様を知り、畏れ敬うことが知恵の初め

聖書は人類に「神様を知り、畏れ敬い、仕える中で救いがある」ということを悟らせてくれています。聖書の全ての教えは、「私たちの魂の救いのためには、救い主である神様について正しい信仰を持つ必要がある」という内容に帰結します。

主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。 箴9:10

聖なる神様を知ることが知恵であり、分別だとおっしゃいました。旧約時代、霊でおられた神様は、新約時代に肉体をまとってこの地上の万民と共に生きられながら、私たち人間の全ての荷を御自ら担われ、経験されました。そうして、人間の弱さを理解され、私たちを助け、あらゆる試みの中から勝つことができるよう導いてくださいます。このような神様の摂理を理解する人が賢明な人です。

霊でおられる神様や、肉でおられる神様を知り、受け入れることは真に難しいことです。特に肉体で来られた神様、つまりキリストを悟ることは神様の秘密であり、その内に知恵と知識の全ての宝が隠されています(コロ1:26、2:2-3)。

聖書の中には、肉体でこの地に来られた神様を、正しく悟り受け入れ、多くの祝福を受けた信仰の先祖たちもいましたが、神様を悟れず妨害し、永遠の地獄の火に落ちることになった愚かな人々も大勢いました。

神様を排斥した人々

夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」…人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 マタ26:20-24

聖書の人物の中で、イエス・キリストを裏切って売ったイスカリオテのユダほど愚かな人はいないでしょう。人の姿でこの地に来られた神様を先生としてお迎えし、いつも付き従いながらも彼は聖なる方を見分けられませんでした。見分けることができたら、どうして畏れ多くも神様を売るという悪質で愚かなことを考えたでしょうか?神様を銀貨30枚で売るべき存在程度にしか見なせなかったイスカリオテのユダは、霊的にも肉的にも悲惨な末路を迎えました。そしてイエス様に「生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われるようになりました。

私たちは霊でおられる神様のこともよく知るべきですし、肉をまとってこの地に来られた神様のことも、どのように見分けてお仕えするべきか、聖書を通してよく理解する必要があります。神様を正しく知ること、これこそが知恵の中の知恵であり、分別の中の分別です。霊でおられようと、肉をまとって来られようと、どんな状況の中でも神様は私たちの神様でいらっしゃいます。

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。…蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」 マタ23:29-33

イエス様は律法学者、ファリサイ派の人々のうわべだけ飾る偽善的な信仰をきつく叱咤され、彼らは不幸だと言われました。彼らは口では神様を信じると言いながらも、その神様を石で打ち殺そうとし(ヨハ10:30-33)、山の崖から突き落として殺そうともしました(ルカ4:21-30)。神様を知ることができず、こんな邪悪なことを企てた結果、彼らには不幸が臨むようになったのでした。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまうという御言葉のように、彼らに付いて行った民も同じようになりました。

…ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。…群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは…「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 マタ27:15-26

ユダヤ人たちは血を流した罪が自分たちとその子孫にあると、その責任を担うことを自ら要求してまで、御自分の地に来られた神様を殺そうとしました。彼らも自分なりには神様にしっかり奉仕していると考えていましたが、それは神様に奉仕することではありませんでした(ヨハ16:2参考)。このように神様に奉仕するという人々が肉体で臨まれた神様を排斥し、敵対した結果、救いが異邦人たちに移るという残念なことが起きてしまいました。

神様を受け入れた人々

今日、聖書の全ての教えを見つめる私たちは、神様に対する正しい悟りと信仰を持って、聖肉身なさった(人の姿で来られた)神様の神性を理解できなければなりません。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」 マタ10:40-41

預言者を見分け預言者を受け入れた人は、預言者の報いを受けると言われました。同じように神様を見分け、神様の御名で神様を受け入れる者は、神様の報いを受けることでしょう。

イスラエルに多くのらい病患者がいましたが、アラムの国の将軍ナアマンだけが病気を癒され、また、イスラエルに多くのやもめがいましたが、サレプタのやもめだけが神様の御恵みを受け3年6ヶ月間の飢饉を無事に乗り越えられたのは、彼らだけが神様の御心を正しく理解し、預言者を預言者として見分け受け入れたからです(ルカ4:25-27)。

このように神様が肉体をまとい、この地に来られた時、神様を悟り神様の御業を少しでも助けた人々、畏れ敬う心をもって神様を受け入れ、信仰によって求めた人々には、決して無くならない永遠なる賞が天国に用意されています。

…一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 マタ26:6-13

香油を注ぐこと自体が記念するようなことではないはずです。しかし、その中には、人の姿でこの地に来られた神様を畏れ敬う心が内在していたので、イエス様は、どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも必ず語り伝えるようにと言われました。

神様が肉体をまとわれても、霊でおられても、どんな時でも、正しく見分け救いを求めた人々には恵み深い結果がもたらされました。十字架の右側の強盗もそうでした。全員がイエス様を嘲り、誹謗した状況の中でも神様を見分けた彼は、十字架上のイエス様に救いを請い願いました。イエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という御言葉一言で救いをお許しになりました(ルカ23:32-43)。

私たちもこのような畏れ敬う心を持って、肉体で来られた神様に尊厳の念を抱いているのか考えてみましょう。2千年前イエス様の時代の全ての行跡は、時の終わりに直面している私たちにとって良い教訓になっています。神様を見分けた人々によって、救いの御業はその脈が受け継がれ、この世の終わりまでキリストの香りを漂わせることになったのです。

救いは神様にかかっている

もし、子供が両親の胸に大きな傷を残すだけの悪事を犯したと仮定してみましょう。その子供を罰したり、赦したりする権限は両親にあります。罰したり赦したりする方法も両親が思いのままに定めます。

私たちは罪を犯してこの地上に追放され降りて来た罪人たちです。罪を赦す権限は私たちの霊の両親である神様にあります。従って、人類は神様が定められた罪の赦しの道に進み出てこそ救いに至ることができます。

ペトロはある日、天から大きな布のような入れ物が地上に下りて来て、その中にあらゆる獣たちがいる幻を見ました。どこからか、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声が聞こえてきましたが、彼は汚れた獣は食べられないと言って断りました。彼もモーセの律法に従って、清い獣と汚れた獣を区分するユダヤ人の食習慣を長い間守って来たからです。すると、もう一度「神様が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声が聞こえて来ました。当時ユダヤ人たちだけに福音を伝えていたペトロは、この幻が人種差別をせず、全世界の民族に福音を伝えなさいという神様の御心であることを悟り、この時から福音は世界に宣べ伝えられ始めました(使10:1-48)。

ここでもペトロの判断に従ってではなく、神様の判断に従って救いが左右されています。救いは唯一神様にかかっているのです。

2千年前ファリサイ派の人々や律法学者たちが文字に属した戒めの律法を主張した時、イエス様は新しい契約の道を教えてくださいました。彼らには過越祭を羊の血ではなく、パンとぶどう酒で守ること自体が理解できないことでした。しかし、神様は「わたしが清めた物を、清くないなどと、あなたがどうして言うのか」と言われました。

天で死刑に値する罪を犯し、この地に追い出されて来た子供たちのために、神様は新しい契約という方法を通して、私たちの罪を免じ永遠なる天国に至ることができる救いの道を開いてくださいました。それを教え、悟らせてくださるために、初臨と再臨の時、肉体の衣をまとわれ、この地に来られたのです。

救いは神様を知ることから始まります。救いの源である神様を知ることができず、神様が肉の姿でこの地に来られて御自ら教えられる救いの方針さえも拒否した初代教会当時の歴史を見ながら、私たちは神様を正しく見分け受け入れて、その救いの教えに完全に従って行く賢明な子供になるべきです。

終わりの日にシオンにおられる肉体の神様

神様は終わりの時代にも初臨の時と同じように、肉体をまとってこの地に来られ救いの道を告げてくださると預言なさいました。

終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい/多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。… ミカ4:1-5

これが終わりの日に成される救いの御業です。世界のもろもろの民が救いをくださる方が誰なのか知り、神様の教えに従うために主エホバの神殿の山、つまりシオン山に集まって来ています。神様が定められた御心は必ず成就します。

過去、ファリサイ派の人々は神様を知ることができず、キリストの口から出てくる純金のような御言葉を拒否する愚かな行いを犯してしまいました。聖書は、肉をまとって来られた神様を受け入れられず、排斥したこと自体が、永遠の地獄の火に入るしかない悪い行いであったことを悟らせています。

終わりの日に神様は自ら来られて救いの道を教えてくださっています。本当に救いを渇望する人なら、イスカリオテのユダのように「生まれなかった方が良かった」と言われたり、偽善者の律法学者やファリサイ派の人々のように「不幸だ」と懲らしめられるよりは、キリストを正しく見分けて永遠の救いに進み出ていくべきではありませんか?

シオンで教えてくださった神様の御言葉一つ一つが、まさに救いの道であり、天国の道だということを肝に銘じなければなりません。「この方こそ私たちの神様」と御自分を喜んで受け入れる民に、神様は死を永遠に滅ぼされ救いをお許しになられました(イザ25:6-9)。

“霊”と花嫁のもとに進み出て命の水を求めなさい

救いを持って来られた神様を見分け、その教えに従ってこそ、信仰の終着駅である救いに恵み深く進み出ることができます。しかし、見分けることができない人は、どんなに尊い御言葉をくださっても悟ることができません。マリアや右側の強盗のように、神様に進み出て祝福を受けられる機会が充分にあるにもかかわらず、請いもせず求めもしません。

イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 ヨハ4:10

神様であることを見分けたなら、進み出て、命の水を求めたことでしょう。全人類が求めるものを溢れるようにくださったとしても、神様にとってはごく少量に過ぎません。それゆえ、あらゆるものを全てくださる準備ができている神様は、休まず祈りなさいと言われました。

今日、神様は“霊”と花嫁として私たちと共にいらっしゃいます。「この終わりの時代には、“霊”と花嫁として現れる」ということは、「“霊”と花嫁の教えを受けなければ決して救いにあずかれない」ということであり、それが神様が定められたことです(黙22:17)。しかし、多くの者たちが神様を知りえず、肉体の中に隠された神性を見いだせないため、“霊”と花嫁に命の水を求められない残念な立場にあるのです。

救いは神様にかかっているということを心に刻み、私たちに臨まれた神様を受け入れ畏れ敬い、その救いをこの世に広く宣べ伝える賢明な者になりましょう。キリストを正しく見分け受け入れる信仰を持ち、“霊”と花嫁のもとに進み出て命の水を求める聖徒の皆さんになられることを願います。