必ずこうなると書かれている聖書の御言葉通りに

マタイによる福音書26章46-56節

357 照会

夜中、イエス様が弟子たちと一緒にゲツセマネの園にお登りになる。独り、三回にわたる祈祷を終えられ、疲れて眠っている弟子たちのところに戻って来られたイエス様。

「立て。見よ、わたしを裏切る者が来た」

イエス様がまだ話しておられた時、イスカリオテのユダが剣や棒を持った大勢の群衆と一緒に現れる。 祭司長と長老たちが遣わした兵士たちだ。

ユダが、兵士たちと予め決めていた合図に従ってイエス様に接吻する。

「友よ、しようとしていることをするがよい」

イエス様が話し終わるや否や、兵士たちがイエス様を捕らえようとする。すると、弟子の一人であるペトロが剣を抜き、大祭司の手下の耳を切り落とす。イエス様は弟子を厳しくお叱りになる。

「剣をさやに納めなさい。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」

そして、兵士たちに向かってこう言われた。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」

「軍団」とはローマの軍隊の単位で、イエス様の時代、一軍団はおよそ6千人の兵士を指した。十二軍団といえば7万人を超える数である。

イエス様は、すぐにでも大勢の天使を呼び出して敵を滅ぼすことがおできであった。しかし、そうされなかった理由は「必ずこうなる」と書かれている聖書の御言葉を実現されるためであった。キリストが人類の罪の代価を担い、苦難を受けられ、犠牲になられることが聖書に預言されていた。このようなことがあって初めて、私たちは救われるようになるのである。

神様が私たちをお救いになるために、この地で受けられるべき苦難はまだ終わっていない(イザ54章)。その預言が成就されていく間、神様の能力が肉眼で見えないからといって、疑ったり、焦ったりする必要はない。すべては「必ずこうなる」と書かれている聖書の御言葉どおりに実現されているのだから。