母の中途半端な記憶

韓国 ソウル / パク・スビン

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私には忘れられない記憶が一つあります。

小学生の頃、ある夜遅く、突然お腹がひどく痛みました。単純な胃もたれと思っていたのに、母は症状が尋常でないと、私を救急病院に連れて行きました。母の予感通り、診断結果は良くありませんでした。数日遅れただけでも腹膜炎になるほど盲腸が膨らんで、破裂する一歩手前だったのです。急いで患者服に着替え手術台に横になりました。

手術が終わって麻酔が解けながら、うめき声が自ずと出てきました。うめき声はすぐに悲鳴になりました。病室に他の患者もいるので静かにしてくれという医師のお願いも無駄でした。私の悲鳴がどれだけ大きかったのか、病室に入って来ようとした父と弟が外で聞いてから、とても中に入って来れないほどだったそうです。母が大げさな私をなだめてくれましたが、私は手の付けようがありませんでした。なぜ私をここに連れて来て、痛い目にあわせるのかと駄々をこねたりまでしたからです。

当然のことですが、私が痛いのは母のせいではありませんでした。むしろ、最初に事態の深刻さに気づいて、急いで病院に連れて来た人も、夜遅く手術が終わるまで心焦がして待ってくれた人も母でした。そんな母に、ありがとうと言うどころか、憎たらしく恨みごとだけ並べたてたので、今思えば恥ずかしいばかりです。

大きな声で叫び、あらゆる騒動を起こした私は、鎮痛剤を打たれてやっと静かになりました。痛みとの死闘は終わりましたが、数日間は動くことはおろか、一人の力で起き上がることさえできませんでした。母は私のそばにいつも付いて、残りの点滴を時間ごとに確認し、私の体を拭いてくれるなど、真心を尽くして介護してくれました。娘の看護をする合間に家事をして、心身ともに言葉にできないほど疲れていたはずなのに、母は私が退院するまで、一度も大変そうなそぶりを見せませんでした。

いつだったか、気になって母に聞きました。

「お母さん、私が昔、盲腸の手術終わってから、すごく叫んだの覚えてる?」

母は覚えていないと言いました。

「そうしたら、その時いつが一番大変だった?」

「当然、お前が手術室に入って行った時だろう。40分から1時間ほどかかったけど…。」

「待っている間、退屈じゃなかった?」

「退屈な暇がどこにあるの?手術中、ずっと無事に終わるようにと神様に祈ったよ。」

ひょっとすると、母がわざと覚えていないふりをしたのかも知れませんが、母の言葉が事実であれば、本当に不思議でした。周りの人が皆目を覚ますほど騒いだのに、母の記憶からは消えて存在しないということがです。

天の母のことが思い浮かびました。天で犯した罪で死ぬしかなかった私を生かそうと、この地まで来られたのに、私は感謝をささげるどころか、大変な状況になれば、私の痛みだけを考えて不平不満を吐き出しました。分別がない子供から、とげのある言葉を聞かされながらも、心が傷むふりを一度もされず、さらに温かい愛で慰めてくださり、包んでくださり、より大きな関心と心配をもって面倒を見てくださる天の母。

子供の頃のがんぜなかった自分の姿を教訓に、今からでも不平不満の芽は切り捨て、天の母にいつも感謝をささげることを心に決めます。もし苦難が訪れたとしても、私の魂が生きるために歩くべき旅路だと考えます。

御自分の平安より、子供の幸福をより望んでおられる「母」の偉大なる愛。その愛を受けて生きる私は、本当に幸せ者です。