学校に通うことになった時、私は新しい友達に会って、一緒に授業を受けて遊ぶこともできるなと思い、嬉しくてたまりませんでした。しかし、ただただ大喜びの私と違って母は、新学期から毎日歩いて私を学校に連れて行ってから、仕事先に向かいました。そして放課後には、私を自分の職場に連れて行きました。母はいつもアイスクリームを買って私の手に握らせてくれました。そうしてこそ私は、母の仕事が終わるまで、大人しく待つことができたからです。
母はいつも朝早く起きて私と姉のご飯を作り、私を学校まで送り迎えするために、毎日のように数キロ歩き、私たちが翌日着る制服を洗濯するために夜遅い時間まで寝られませんでした。
ところが私が4年生になった時、母は出稼ぎのためヨルダンに行くことになりました。その当時は父も家から遠く離れた所で働いていたため、なかなか会えませんでした。それで私と姉は、叔父の家で暮らすことになりました。父が私たちを職場の近くに連れて来る前まで、私たちは両親に世話をしてもらえませんでした。学校へ行きなさいと朝早く起こしてくれることも、おいしい食事を準備してくれることもありませんでした。制服を用意してくれたり、学校の宿題を手伝ってくれることもありませんでした。当時の私は、私たちのための母の犠牲や努力を悟るには、まだ幼かったようです。母が発った後、すべてが大変でたまらないと不平不満を言いました。なぜ母が私たちを残して海外まで行って仕事をしなければならなかったのか、まったく理解できませんでした。
本当に長いこと母に会うことができませんでした。私が小学校を卒業する時も、姉が高校を卒業する時も、母の姿はありませんでした。私たちの誕生日やその他の記念日にも、母の姿はありませんでした。初めはこんな状況が不満でしたが、時間が経ち成長するうちに、母がどうして私たちを残して出稼ぎに行くしかなかったのか、理解できるようになりました。母は私たちを良い学校に行かせて、私たちの欲しい物や必要な物を買ってくれるために、遠い外国まで行って働かなければならなかったのです。母は、私と姉がより良い生活ができることを望んだのです。
母が私たちを家に残して出て行く時、どれほど辛かっただろうか、遠い国での仕事が辛くても、子供たちがより良い生活ができることを夢見ながら、どんなに歯を食いしばって堪えただろうか、家族と故郷の家を懐かしみながら、どれだけ多くの涙を流しただろうかなどとは考えもしませんでした。母のことを思うと、胸がズキズキ痛みます。
母のことを思いながら、母の愛とは子供のためならすべてを耐え忍ぶものだということを感じました。そして、天の母のことが思い浮かびました。天の母は、子どもたちが大きな罪を犯して自分に背を向けたとき、どれほどの苦痛を味わわれたでしょうか。子供たちがご自分のことを忘れ、世の逸楽を追い求める姿を見るたび、とてつもない苦しみを感じられたはずです。それでも天の母は、子供たちを明るくて輝かしい未来、永遠の天国に連れて行ってくださるために、この地に御自ら来られて、もともと私たちが受けるべき苦痛と困難に耐え続けていらっしゃいます。さらに悲しいことは、今でも多くの人々が天の母を見分けることができず、その偉大なる愛と犠牲を完全に悟れずにいるということです。それでも天の母は絶対に諦めたりなさいません。失われた子供たちを捜し出すためなら、昼も夜も祈られない日はありません。
天の母の限りない愛に、どうやって報いることができるでしょうか?子供が親の恩に報いるために、一生懸命自分の役割を果たして成功しようとするように、私も天の父と母がお許しくださった真理を一生懸命学び、福音を伝えることに力を尽くします。失われた兄弟姉妹を捜し求めながら、天の父と母の愛と犠牲に報いたいと思います。