
私が育ったウィスコンシン州をはじめとするアメリカ中部の人々は概して伝統的な生活を送っています。家族中心で故郷を離れることもあまりありません。それで、私が夢を追って独立し大都市のニューヨークに行ったことは、私の家族にとってかなり衝撃的なことでした。
私の夢はブロードウェイの舞台に立つことでした。ニューヨークのマンハッタンに位置した、世界的な演劇・ミュージカル公演が繰り広げられるそこに演技で足を踏み入れた後、究極的には舞台公演の演出家になりたかったのです。それで総合演劇芸術を専攻して演技と演出だけでなく衣装デザイン、扮装まで勉強して大学卒業後修士課程を踏もうといろんな学校に志願したあげくニューヨークで学業を続けるようになりました。
無数の計画と選択の中で私をニューヨークに導かれた方は神様でした。そこで私は広い道[Broadway]の代わりに狭い道に入り、人生で必ず探さなければならない祝福と幸せがまさにその道にあることを長い時間が経ってから悟りました。
ニューヨークに着いて数日も経たない頃、夢に膨らんでいた時、新しく付き合った友人たちと公園で開かれる演劇を見に行くことにした日でした。地下鉄の駅から出てみると、建物ばかりがびっしりで、公園は見えませんでした。その時に出会った神様の教会の方々が、天の母について教えてくれました。しかし、約束の時間に遅れて、早く道を探さなければならないという思いで、御言葉が耳によく入りませんでした。
実は私はキリスト教の家で生まれたという事実に唖然とするほど、聖書の御言葉に拒否感がありました。善良に見える外見とは異なり、偽善に満ちた教会の人々のせいで幼いころからすでに信仰に懐疑を感じた私は教会に行かないと宣言し、母親は私の決定を尊重してくれました。
私が住んでいた地域は住民のほとんどがキリスト教徒なので、神様を信じて教会に通うことが自然でした。私も教会に出てはいませんでしたが、多様な教団に属した友人たちと聖書の勉強会をしたりしました。ある日、友人が、自分が見る聖書と私の家が属する教団が見る聖書の違いを教えてくれました。どちらが正しいのかわからず混乱しました。「数千年間、数多くの人の手を経た聖書が本当に神様の御言葉なのだろうか?翻訳や編集の過程で間違って伝わったのでは?」という疑問は、すぐに聖書に対する不信へと広がりました。真理を探すにはヘブライ語を学んで直接聖書を翻訳するしかないという冷笑的な考えと、自由奔放な学科の雰囲気に流されてさらに聖書やキリスト教の信仰から遠ざかりました。
そのため、天の母のことを初めて聞いた時も興味深いと思いましたが、それだけでした。むしろその存在が「聖書に記録」されており、「教会」で伝えているということで心が開かず拒否感が感じられました。
数ヶ月後、ニューヨークでの生活に慣れた頃、神様はもう一度救いの知らせを送ってくださいました。当時、私はブロードウェイの近くにあるカフェで働いていました。ある日、常連客がバレエ公演のチケットをくれて一人で公演を見に行きました。公演が終わって家に帰るのが名残惜しく、公演場の周りを散歩していたところ、神様の教会の方々に会いました。今度はエロヒム神様に関する御言葉が心に強く響きました。世の中のすべてのものは必ず均衡でなければならないと信じていたので、父なる神様と共に母なる神様が存在するという事実が調和して感じられました。
「そうね、これは当たり前なことじゃない。完璧な話だわ」
その次の週に神様の教会に行って、真剣に聖書の御言葉を調べました。その方々は聖書そのものを不信する私に、科学的にも歴史的にも聖書が事実であることを明確に教えてくれました。続いて、過越祭と永遠の命の約束、聖三位一体の真理などを聖書で確認しました。聖書の一節一節を一つ一つ見せられるたびに、真理が滝のように頭の中に入ってくるようで、これまでの誤った認識が粉々に砕かれるような衝撃を感じました。
真理は否認できないほど確実でしたが、神様の教会で信仰生活を再び始めなければならないという決定は快く下せませんでした。「教会」という場所は自由を抑制し、制約の多い場所だと思ったからです。その時、御言葉を教えてくれた家族が、ためらっている私に言いました。
「どうしてだめなんですか?一度やってみてください」
一瞬、勇気が出ました。その言葉は私がニューヨークに第一歩を踏み出した時、心の中で決めたモットーでした。新しい食べ物も、新しい場所も、新しい経験も一度試してみようと誓い、誰かが何かをしてみようと勧めたときに「どうしてダメなの?」と自問して挑戦しました。神様に従えない理由がなかったので、その日新しい命の祝福を受けました。
しかし、その後、信仰を立てるまでにかなり長い時間がかかりました。敢えて教会に出なくても、一人で聖書を読みながら救いに至ることができるという錯覚に陥り、シオンの家族たちの連絡を受けませんでした。シオンの家族はそんな私の魂が救いの道に進むように果てしない愛で世話をしました。私に会いに来るたびに、私が気楽に感じられるように配慮し、一節一節の御言葉の糧を心を込めて食べさせてくれました。母親が子供に苦い薬を飲ませる時のように、私の心を慰めながらです。家族は自分の日程を変えながら私に会いに来て、心から惜しみなく愛を施してくれました。未熟だった私の手を離さず忍耐で待ってくれた天の家族に本当に感謝します。
家族のように神様に正しく従いながら私の人生は完全に変わりました。今まで学校で学んで磨いたすべてのことで神様の栄光を表せるのは何よりありがたいことでした。聖歌隊として神様の恵みを称え、天の父と母の愛を目覚めさせる文化行事と展示会を家族と共に企画し進行したりもしました。神様は信仰が浅く成長が遅い私に過分な祝福を注いでくださいました。その過程で本当に多くの悟りも得ました。
新しい歌に合わせた扇子踊りの公演を準備しながら、配慮と和合を学びました。多くの家族が美しい形態を成すためには、お互いを尊重し、一体のようになって動かなければなりませんでした。思いやりと柔和、連合と従順など、御母様の教えが扇子踊りの公演の中に、また芸術形式の中に含まれていました。
そのように準備した舞台の上で家族と調和する中で、真の自分自身を見つけました。シオンの家族と共にする行事は最高の俳優たち、スタッフたちと共に完璧な作品を作るような感じがしました。それぞれ気質や才能が違っても、皆が天の父と母の暖かい愛を抱いて臨むので、神様の恵みが溢れました。 神様の栄光を表し、多くの人々に愛と希望を伝えようと準備した行事が、むしろ私に必要な徳目を植え付ける過程になりました。
韓国を訪問した時は、そばで助けてくれた韓国の家族の物静かで敬虔な姿に多くの恵みを受けました。忙しい日程の中、訪問団の家族の面倒を細かく見るためにとても疲れているはずなのに、韓国の家族はいつも霊的エネルギーで満たされ、私たちを力付けてくれました。その秘訣が何か探ってみながら、この家族にはいつも天の母への愛がいっぱいだからだという気がしました。子供たちのために昼夜を問わず努力され犠牲になられる天の母を常に見つめながら気を引き締めるので、御母様の教えを着実に実践できるのです。天の母の献身こそ、私たちが絶えず変化し、品性を美しく育てていく力の源泉であることを悟りました。天の母にお会いする瞬間だけ、その犠牲に心を痛めて自責するのではなく、今は本当に変化しなければならないという気がしました。それでその後は福音の仕事をしながら「こんな時に母ならどうされるだろうか」を常に考え、その教えを実践しようと努力し、疲れたり大変な時は母の犠牲を思い出して勝ち抜きました。
今年、韓国を訪問する前、私に一途な愛を伝えてくれた家族が小さなハガキを差し出しました。私が神様の仕事を熱心にすることが胸いっぱいの感動だと言い、神様に感謝する葉書の末尾にはこのような言葉が書かれていました。
「姉妹は人生で最高の決断をしたんです」
私の本音をそのまま表現した言葉にぐっと来ました。天国に向かって福音の道を歩むことにした選択は、文字通り私が下した最高の決定でした。一人でしたのではなく、父と母の無限の愛と家族の真心と忍耐があったからこそできました。今後も全世界福音完成という舞台の最後を飾るまで家族と連合し、私に与えられた使命を遂行することに最善を尽くします。