私は会計士である。職業上「負債」に関する内容を扱うことが多い。ここで負債とは、ローンの元金と利子の合計を指すのだが、誰かが自ら手に負えない大きな借金を抱えることになった場合、その人を救済できる一つの方法がある。「債務免除」だ。この制度が適用されると、債務者は一定量の借金だけ返済し、残りは帳消しにされる。結局、すべての金額を弁償するわけではないので、債権者は免除された分、損害を受ける。債権者にとっては、決して嬉しくない制度だ。
もちろん、負債が帳消しにされる条件は厳しく、申し込んだからと言ってすべて受け入れられるわけではない。裁判所が債務者の態度を見て免除するかしないかを確定するためである。このように債務免除は非常に難しいことだが、崖っぷちに追い込まれた債務者にとっては、唯一の脱出口でもある。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので…。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 マタ18:23-27
負債の一部だけ免除されても、債権者にとっては損害にならざるを得ないのに、全てが帳消しになれば、それこそ大きな損失だ。これを許可する債権者など果たしているだろうか?
イエス様はたとえを通して、私たちに「罪の赦し」という霊的な債務免除の制度を知らせてくださった。債務者の負債、すなわち元金と利子を帳消しにするこの地の債務免除の制度とは違って、天の債務免除の制度では、罪人の刑量がその免除の対象となる。
聖書は、人類が天で神様に罪を犯した罪人であるという事実を証ししている。また、それに値する刑罰は死であると伝えている(ロマ6:23)。これは死ななければ罪が消えないという意味だ。しかし、死んで罪の代価を支払ったとしても、自分が既に死に、存在しなくなったら何の意味があるのか。死刑判決を受けた罪人は、自分に下された刑罰に耐えうるだけの能力がない。
ところが神様は、一万タラントンという天文学的な負債を帳消しにしてやった王のように、御自分の血で私たちの罪を代わりに返済する霊的債務免除の制度、過越祭をお許しくださった(マタ26:26-28)。私たちの力で罪を返済することができないことを御存知なので、神様が直接御自分の血を流してくださることで、完全に罪を赦してくださったのだ(ヘブ9:22)。
神様は被害者の立場であられるにもかかわらず、私たちを赦され、むしろ罪の代価を肩代わりしてくださった。このような非常識な制度が施行可能なのは、神様が私たちの両親であられるからだ。この世で誰が罪人の代わりに犠牲になり、罪の代価を支払うことができるだろうか?その父親と母親だけだろう。ただ両親だけが、子供に自分の命までも差し出す無条件的な愛を与えることができる。
天の両親が命を差し出してくださることで立てられた罪の赦しの掟が、まさに新しい契約の過越祭だ。私たちが過越祭を守れば、神様が私たちの罪を無条件に帳消しにしてくださると言われた(マタ26:26)。このように過越祭には、子供という理由ひとつで私たちの罪を担ってくださった、神様の犠牲が込められている。
ある者は、神様と私たちの関係を、単に主従関係または債務者と債権者の関係と曲解し、私たちが救われることを「やりとりする(give and take)」ことと誤解している。しかし私たちは、神様が私たちのために御自分の命まで差し出してくださり、一方的に犠牲になられたことを確認した。これを悟ったなら、決して「私は神様に何かを差し上げたので、罪が赦された」と言うことはできない。赦しを受けることも、返済することもできない罪を、天の債務者たちの代わりに御自分の血をもって帳消しにしてくださった神様の姿を通じて、神様は本当に私たちの魂の父と母であられることが分かる。
天で犯した罪が軽くて罪の赦しの恵みが許されたのだろうか?決してそうではない。私たちがどのような努力をしても返済できないほど罪が大きく重いので、天の父と母が代わりに担ってくださったのである。そんな神様の御恵みに報いるために、全人類を罪の赦しの道に導かなければならない。また、愛であられる神様が、私の罪を価なしに赦してくださったように、当然、兄弟姉妹の過ちを赦す愛を施さなければならない。二度と得ることのできないはずだった天の子供の権利を取り戻させてくださり、永遠の天国をお許しくださった天の父と母に無限の感謝をささげる。