福音宣教と人類の救い

186 照会

神様は天で失われた者たちを捜して救うためにこの地まで来られ、人類が誰も滅びることのないように、悔い改めて救いにいたれるようにと切に願っておられます。それゆえ神様は、愛する子供たちに福音の良い知らせを世界中くまなく宣べ伝えて、世のすべての人々に救いの機会を与えるようにと頼まれました。

全世界のシオンの家族たちは神様のこの崇高な御心を奉じて、全人類に神様の御言葉を伝えることを決意し、心を一つに合わせて頑張っています。もちろん、全人類に福音を宣べ伝えるというのは容易なことではありません。その過程においては様々な事情、難解で複雑な数多くの問題が絡み合っているはずです。しかしその解決法は、実は意外と単純なものです。

ゴルディアスの結び目を解く方法

ゴルディアスの結び目の話について、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。フリギアの都ゴルディオンにゴルディアスの戦車があり、この戦車は柱に非常に複雑に結びつけられていました。「この結び目を解いた者がアジアを征服する者となる」という予言が語り伝えられていたので、長い間多くの人々が結び目を解こうと挑戦しましたが、誰一人としてその結び目を解くことができませんでした。

そんなある日、ちょうどアレクサンドロス大王が遠征中にその地域を訪れ、この話を聞きつけてやってきました。実際に見てみると、結び目は一つ一つ解くには一生解いても解けないほど複雑に絡み合っていました。その時、アレクサンドロス大王は剣を抜き、その結び目を一刀両断してしまいました。結び目を解かずに、断ち切ったのです。その後アレクサンドロス大王は、預言どおりにアジアを征服した王となりました。

人は、手に負えないような無理難題を、この伝説「ゴルディアスの結び目」によくたとえます。福音を伝える上でも、個人なら個人、教会なら教会レベルで実に複雑極まりない要素が数多くあるはずです。しかしアレクサンドロス大王のような知恵を発揮できれば、一気に解決することが可能です。一つ一つ解いていっては決して解けない結び目を解くことのできる唯一の方法は、その結び目を断ち切ってしまうことです。しっかりと結び合わされた一本一本の糸は、最終的には預言の主人公、つまり神様の子どもたちによって解かれていくことでしょう。

今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。… 二コリ7:9-11

世のための思い煩いの行きつくところは死ですが、神様の御心に従う中で生まれる心配や煩いは、救いという驚くべき結果をもたらします。この世のあらゆる懸念、憂いごとや心配は、聖霊の剣を抜いて一気に振り下ろし、断ち切ってしまいましょう。神様の御心どおりにさえすれば、救いを得ることができます。

神様だけを信じて依り頼めば、私たちも結び目を断ち切る剣をさやから抜くことができます。しかしそれができずに、もつれた結び目を解くことだけに執着するようなら、その結び目はほどけるどころか、また別の結び目を新たにこしらえることになってしまいます。

エリコを倒す方法

カナン地域の偵察に行って来た12人の偵察隊のうち10人の頭の中は、複雑な思いでいっぱいでした。カナン征服という目標は持っていましたが、どうしても勝利できる方法が思い浮かびませんでした。非常に高くて頑丈な城壁、骨太でがっしりした巨人のような住民たち、彼らが所持していた数えきれない兵器などを見ても、自分たちは力不足だと絶望的な気分になりました。自分なりの考えで解こうとすればするほど、その結び目はまた別の結び目を作ってしまい、永遠に解くことのできない結び目になってしまったのです。

心配に明け暮れた人々は否定的な考えにとらわれてしまったため、すべてが不平不満に発展しました。しかし、ヨシュアとカレブは違いました。「彼らは我々の餌食だ。神様は我々と共におられる!」

結局ヨシュアとカレブを除いて不平不満を並べていた者たちが皆滅びるまで、イスラエルの民は荒れ野で40年を過ごしました。そしていよいよカナンに入って最初の町、エリコの前に立った彼らは、当時と同じ状況に直面しました。「あんな鉄でできたような町を、我々に征服できるのだろうか?」「あんな強い敵を、どうすれば滅ぼせるんだろう?」しかし、指導者ヨシュアが彼らの信仰の火を再び燃え上がらせました。「心配する必要はない!神様が我々と共におられるではないか!神様のおっしゃるとおりにすれば、必ずエリコを我々の手にお許しくださるはずだ!」

ヨシュアが、エリコを征服する方法について頭を抱えて悩んだり、作戦を立てたわけではありません。神様だけに依り頼み、御言葉どおりに実行しただけです。エリコの周囲を七周回りなさいとおっしゃったので七周回って、鬨の声をあげよとおっしゃったので鬨の声をあげました。人間が編み出した戦略で問題を解決しようとしたら、エリコは現在にいたるまで征服不可能な鉄の要塞として残っていたことでしょう。しかし、神様のおっしゃる通りにしてみたところ、結び目はとても簡単に解けてしまったのです。

天の母は私たちのことを、まさに「ヨシュアの使命にあずかった人々」とおっしゃいました。世のすべての民に福音を宣べ伝える際にも、このような信仰が必要となります。

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 一テモ2:4

神様が「すべての人が救われて真理を知るようになる」ことを望んでおられるのなら、私たちが彼らに真理を伝えてあげなければなりません。そのために、私たちは皆で一緒に立ち上がり、それぞれが住む大陸、国、地方ごとに神様の祝福あふれる嬉しい知らせをくまなく宣べ伝え、彼らの前に救いの扉を開いてあげようという全世界福音宣教運動を繰り広げているのです。

神様が成し遂げるとおっしゃったことなのに、どうしてそれが不可能に終 わり得るでしょうか。今日からでも、誰にでも、宣べ伝えればいいのです。神様はすでに、結び目を一つ一つ解くのではなく一気に断ち切るという方法までも私たちに教えてくださいました。

余計な心配をせずに御言葉どおりに実践しよう

神様がこの地に来られた目的は、失われた者たちを捜し出して救うためです。福音を宣べ伝えるのも、単に布教のための宣教ではなく、世界を救うという意味が込められています。そのためには、私たちの目の前で複雑に絡み合った糸のような思い煩いをすっぱりと断ち切って、神様の御言葉に聞き従わなければなりません。

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」…イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。…さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。…そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。 ルカ19:10-26

十ムナ、五ムナを稼いだ僕こそ、思い煩いの結び目をあっさり解く方法を知っていた人です。彼らは主人に命じられたとおり商売をして、多くのムナを稼ぎました。このたとえに出てくる「商売」は「福音を宣べ伝えること」を意味しています。福音を宣べ伝える人々によって数多くの魂が救われた、という意味なのです。

他の人々も御言葉に聞き従って一生懸命商売に取り組みましたが、ある人は商売は後回しで、あれこれと心配や思い煩いをしながらたくさんの結び目を作り出しました。「どうしようかな?何をしようかな?どんな方法がいいかな?」あれこれと考えながら結び目をたくさん作り出していくうちに、結局は何も手をつけずに悩んでばかりいたところ、主人が帰って来るその日を迎えました。その人は結局「悪い僕」という判定を受け、持っていたムナさえも取り上げられるという非常に気の毒な立場に立たされてしまいました。

私たちは、一ムナを布に包んでしまっておいた僕のように悩んだり心配するよりも、直ちに主人の言いつけに従い実行に移した僕のように、今からでも神様の言いつけに聞き従って一生懸命に宣べ伝えてみましょう。実行してみれば、簡単です。神様は御言葉を実践する人には、きっと大きな祝福という恵みで報いてくださるはずです。

「救い」という目的があるところに答えがある

昔、子供たちが遊んでいたのですが、ある子供が水がいっぱいに入った大きな水がめの中に落ちてしまいました。一緒に遊んでいた子供たちの中には、近くにいる大人に知らせるために走っていった子供もいれば、どうしていいか分からず、じたばたするばかりの子供もいました。ところが、ある子供が少し離れたところから大きくて重たそうな石を一つ抱えてきたと思ったら、その水がめに打ちつけて割ってしまいました。

他の子供たちもその子を助けたい気持ちは同じでしたが、とても単純な、ある事実を見逃していました。中に入った水さえ抜いてしまえば、水がめの中の子供は助かるということです。石を持ってきて水がめを割りさえすれば、その子を助けることができたのです。町の大人たちに知らせに行ったら、こちらへ走って来る間に子供は溺れ死んだかもしれません。地団駄を踏んでいた子も、何の役にも立ちません。唯一、その子を助けなければと考えた子供が、水がめを割って助け出しました。

私たちも「救い」という内容だけ考えるなら、水がめに落ちた子どもを一瞬にして救い出す重たい石を持って来る知恵を思いつくはずです。どうすれば全人類を救えるだろうかと心配し、あれこれと方法論に頭を悩ませるよりも、実行することが大切です。救うことだけに重点を置いて熱心に福音を伝えれば、神様が道をすべて開いてくださいます。熱心に福音を宣べ伝えれば、それがすなわち複雑な結び目を一気に断ち切ったアレクサンドロスの剣となり、水がめを割って子供を救った石の役割を果たすことでしょう。

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 マタ28:18-20

エリコを征服する時も、神様があらかじめおっしゃいました。「毎日エリコの周りを一周ずつ回り、七日目には七周回ってから鬨の声を上げなさい。その時、エリコの城壁が崩れる」と、結果まで教えてくださいました。それと同じように、父と子と聖霊の名で浸礼を授け、命じておいたことをすべて守るように教えれば、世界的な救いの御業が起こるということを神様ははっきりと教えてくださいました。

その御言葉は世界の果てにまで及ぶ

神様が計画され導いていかれることはすべて、恵み深い結果が既に予定されています。神様が進めていかれる方法に依り頼み、神様の御心に従っていけばすべてがその通りになるのです。

…「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。 ロマ10:11-18

私たちが福音の良い知らせを伝えていけば、その御言葉が世界の果てにまで宣べ伝えられるという結果が必ず生まれるようになっています。全員が同時に鬨の声をあげたらエリコが倒れたように、霊的バビロンも倒れます。彼らの方が規模が大きく、既得権も得ていて、私たちよりも力がありそうだから難しいかもしれない…。これは、10人の偵察隊の考えと同じです。神様はこの福音が全地に宣べ伝えられるとおっしゃいました。

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に… 詩19:2-5

聖書の預言がこうなっているのなら、信じるべきではありませんか?ただ、私たちは預言の主人公として「私があなたがたに命じておいたことを教え、守らせなさい」とおっしゃったとおりに実行すればいいのです。

イスラエルの民がエリコを征服する時も、神様がその方法を教えてくださいました。民はそのとおりに実行し、結果はそのとおりに成就されました。大バビロンを倒すには、このように神様がくださった御言葉どおりに実行すればいいのです。サタンは人々に福音の知らせを聞かせまいと、必死になってありとあらゆる障壁を作り出そうとしますが、エリコという障壁がいくら高くそびえたっていても、神様の一押しで崩れてしまったのではありませんか?

日が経つにしたがって、ますます福音はたくさんの人々に伝えられています。サタンがいくらそれを阻もうとしても神様が道を開いてくださるので、私たちは天の父と天の母がこの地に来られたという知らせと、聖霊時代の救い主の新しい名であられる安商洪様の御名によって浸礼を受け、その御心どおりに実行しなければならないということを、たゆまず知らせてあげなければなりません。

御言葉が信じられず、いかにも勇壮に見えるエリコをただ指をくわえて見ているだけの人は、気持ちが落ち込み、自分の中にまた別の結び目を作り出すだけで結び目を解くことはできません。福音によってアジアを征服し、アフリカを征服し、この福音を全世界のすべての大陸に宣べ伝える預言の主人公は、結び目を作り続ける人ではなく、信仰でその結び目を一刀両断できる人なのです。

どこにいたとしても、神様の御心を奉じて熱心に宣教するというのが、まさに結び目を断ち切る業だと言えます。学生は学校で、軍人は軍隊で、社会人は職場で、また私たちが日常生活の中で出会う多くの人々に、常日頃から福音の知らせを伝えることに力を注げば、神様が必ず救いの御恵みと尊い良い実で報いてくださるはずだと信じています。神様は、すべての人が救われて真理の知識を得ることを望んでおられます。全世界のシオンの子である皆さん、聖霊の武具を身につけて、天の父と天の母が望まれる人類の救いの御業を必ず成し遂げられますように願います。