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神様を信じさえすれば、無条件で救われるということを良く聞きます。これは本当ですか?

319 照会

信仰により救われるのは間違いない事実です。「あなたがたの信じているとおりになるように」というイエス様の御言葉に始まって、使徒パウロはキリスト教徒の信仰生活における3大要素の中の一つに数えるほど、信仰を強調して述べながら「正しい者は信仰によって救われる」と言いました(マタ9:29、一コリ13:13)。

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されているのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 ロマ1:17

律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。 ガラ3:11

聖書で言っている信仰は、通常人々が言う信仰とは異なります。大部分の教会では、イエス様が「行いなさい」と教えてくださった新しい契約の制度は完全に排除しながら、頭の中にある考えのみを信仰だと言うのですが、これは本当の信仰とは言えません。

信仰と実行は一体

誰かが食事に誘って「一緒にご飯を食べましょう」と言ったとしても、その言葉をおかずなしに、ただご飯だけ食べようという意味にとる人はいません。たとえ、他の単語が入っていなくても、様々な食べ物を食べる、食事をすると言う意味として理解します。

「信仰により救いを受ける」という御言葉も信仰という単語だけ現れているからと言って、信じる心それ自体を指すのではありません。「信仰」という言葉の中には、信仰に伴う行為が含まれています。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。 ヘブ11:7-8

聖書ではノアが箱舟を造り、アブラハムがカルデアのウルを発ちカナンに移動したことが、全て「信仰」によるものだと言っています。是が非でも信仰と行為を二つに分離させようとする人々の、二分法的主張によるなら、箱舟を造ることや、カナンに移動したことは行為であって、決して信仰ではないという、聖書と相反する結論が出てきてしまいます。

イエス様を信じるなら、信仰によりなされる行為が伴わなければなりません。イエス様は、私たちが信仰によって実行するべき新しい契約の制度が、救いにおいて必ず必要だと教えてくださいました。

信仰と新しい契約の制度

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 マコ16:15-16

福音を信じはしても浸礼を受けないなら、信じない人と何の変わりもありません。救いを得ようとするなら、イエス様の教えどおり福音を信じるだけでなく、「救い」のしるし、浸礼を受けなければなりません。

この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。 一ペト3:21

信じさえすれば無条件で救われ、そのほかどんな行為も必要ないという主張は、救いに至らせる信仰つまり聖書的な信仰が何なのか正確に知らないところから生じた誤った主張です。「信仰により救われる」と言う時、その「信仰」という言葉の中には「浸礼」という新しい契約の制度がすでに含まれています。

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飮まなければ、あなたたちの內に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飮む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 ヨハ6:53-54

イエス様は御自分の肉と血を食べて、飲まなければ、決して永遠の命はないと言われました。罪の代価により死ぬしかない人類にとって、救いとはすなわち永遠の命を得ることを意味します。しかし、永遠の命はイエス様の肉と血を食べて飲む人にだけ許してくださるとイエス様が直々におっしゃいましたので、救いのためにはイエス様の肉と血を食べて飲まなければ「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言われた御言葉どおりに永遠の命を得ることができません。どんなに大きな信仰があっても、イエス様の肉と血を食べて飲む行為がなければ、救いを得ることはできないのです。

イエス様の肉と血を食べて飲む方法、それがまさに新しい契約の過越祭です。

除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緖に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。… 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飮みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 マタ26:17-28

時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緖だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」 ルカ22:14-20

この地に命を与えるために来られたイエス様は、私達が過越祭を食べることを切に願われました(ルカ19:10、ヨハ10:10)。それだけ、新しい契約の過越祭を守ることが私達の救い、つまり永遠の命を得る上で必ず必要だという意味ではありませんか?

過越祭のパンとぶどう酒はイエス様の肉と血

過越祭のパンとぶどう酒が、イエス様の肉と血を意味するという内容は、イエス様の御言葉と行跡にはっきりと現れています。それにも関わらず、信仰について誤った認識を持っている人々は、イエス様を信じることがイエス様の肉と血を食べて飲むことであり、過越祭のパンとぶどう酒は永遠の命とは無関係だという無理強いな主張をしたりもします。

はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 ヨハ6:47

ここで、重要なことは「何」を信じる者が永遠の命を得るのかということです。後に続く内容を見れば、イエス様が「天から降って来た命のパン」であられることを信じて食べなければならないという御言葉です。

はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 ヨハ6:47-51

イエス様が命のパンであることを信じる者は永遠の命を得るために、そのパンを食べなければなりません。本文の御言葉は、信じること自体が命のパンとして表されたイエス様を食べることにはならないので、イエス様が命のパンであることを信じて食べなさいという意味です。永遠の命をくださるイエス様の肉と血がまさに過越祭のパンとぶどう酒です。その内容について確実な証拠がまたあります。

まず、イエス様は過越祭を通して、「罪の赦し」を約束されました(マタ26:27-28)。聖書で罪の価は死だと言ったので、罪が赦されたら死も無くなります(ロマ6:23)。即ち、永遠に生きるということです。過越祭の中に込められた祝福が、ヨハネによる福音書6章の御言葉と正確に一致するということは、過越祭のパンとぶどう酒がまさに「永遠の命」を得させるイエス様の肉と血だということを意味しているのです。

また、別の証拠はイエス様がメルキゼデクの系統の大祭司として来られたということです。

キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 ヘブ5:8-10

メルキゼデクは旧約時代、アブラハムにパンとぶどう酒で祝福してくれた祭司です。

いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。 創14:18-19

イエス様が過越祭のパンとぶどう酒で罪の赦しと永遠の命の祝福を私達に下さったのは、イエス様がメルキゼデクの実体として来られたからです。それゆえ、パンとぶどう酒が永遠の命と関係がないという主張は、イエス様がメルキゼデクの実体であるという事を考慮せずに導いた愚かな主張です。

実行することの重要性

救いにおいて信仰は非常に重要です。しかし、私達が本当に信じるべきことは、道であり、真理であり、命であられるイエス様の御言葉と教えであって、人間が作った虚しい教理ではありません。

イエス様は信じて浸礼を受ける者が救いを得ると言われ、メルキゼデクの実体として過越祭のパンとぶどう酒で永遠の命の祝福を下さいました。イエス様を救い主として信じるなら、イエス様の御言葉を信じ、その信仰で浸礼と新しい契約の過越祭を行わなければなりません。

実行することがどんなに重要なのかについては、イエス様が過越祭の本礼拝に先立って行う洗足儀式の時に、ペトロに言われた御言葉にも如実に現れています。ペトロは師匠でいらっしゃるイエス様が弟子達の足を洗われることはあり得ないと考え、自分の足を洗ってもらわないようにしようとしました。その時、イエス様がペトロに言われた御言葉が足を洗わなければ、あなたと何のかかわりもないことになるというものでした。

ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 ヨハ13:8

当時、ペトロは誰よりもイエス様をキリストとして信じ確信していました(マタ16:16)。それにも拘らず、イエス様は彼に「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われました。救い主でいらっしゃるイエス様と何のかかわりもない者が救いを受けることはできません。これは、洗足儀式も含めて過越祭の儀式を守ることが、それだけ私達の救いに必ず必要だという意味です。

神様の御心どおりに行う者が入る天国

天国は神様の御心どおりに「行う」者が入る所です。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 マタ7:21

口先だけで信じると言ったり、信じるという考えだけでは天国に入ることはできません。天国に入るためには、必ず神様の御心どおりに行わなければなりません。

イエス様ははっきりと、信じて浸礼を受けてはじめて救いを受けると言われ、御自分の肉と血を食べて飲まなければ命がないと言われました。これら全ての御言葉を信じ、そのとおりに行うことが、救いに至る事ができる真の信仰です。それが、イエス様の教えであり、神様の御心です。