いつも喜んでいなさい

232 照会

私たちがまもなく帰っていく天国、そこはどんなに喜びと楽しみが溢れている所でしょうか?聖書は、天国と地上世界が実物と影の関係にあると教えています(ヘブ8:5)。したがって神様が人類に与えられた“喜び”という感情についてよく調べてみれば、私たちが天国で享受する真なる喜びについても悟ることができます。

私たちが感じる喜びや楽しい感情は、笑いとして現れます。日常会話の中でも、暗く重いテーマや否定的な話をする時は心がずっしりと重くなり表情もこわばりますが、ユーモラスで面白い話を聞けば自然と笑いが飛び出します。ひとしきり笑い切ると、誰もが心の中の重荷を下ろし、しばらくの間楽しい感情を満喫できます。その瞬間だけは、誰もが天国にいるような気分を味わうことができるのです。

「信心のために自分を鍛えなさい」という御言葉があるように(一テモ4:7)、喜び溢れる天国に到達するためには、自分を鍛えると共に、喜びを味わう練習も必要です。神様は、子供たちが喜び楽しみながら信仰生活を送れるように導いておられます。

喜びと楽しさに満ちたシオン

「神様の御心を行う人が天国に入ることができる」といわれました(マタ7:21)。いつも喜んでいることもまた、私たちが行うべき神様の御心です。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 一テサ5:16-18

今まで私たちは、安息日や過越祭のような神様の掟は必ず守るべき掟として重視しながらも、いつも喜んでいなさいと命じられた神様の御言葉は忘れて生きていたような気がします。神様は私たちに「いつも喜んでいなさい」とおっしゃいました。罪と死から救われ、永遠の命と喜びあふれる天国に行けるようになったのですから、喜ばないわけがありません。

アブラハムの家庭の歴史について調べてみると、アブラハムの唯一の跡継ぎイサクは、その名の意味が“笑い”です。私たちを“イサクのような約束の子”とおっしゃったので、神様から貴い約束をいただいた私たちも、いつも笑いと喜びと感謝に満ちた生き方をしなければならないのではありませんか?それができた時に、イサクが父アブラハムと母サラにとって“笑い”となったように、私たちも天の父と母にとって“笑い”となる子供たちになれるのです(創21:1-7、ガラ4:28)。

いまだに喜ぶことなく、楽しむこともなく、笑ってもいないなら、それは神様に約束をいただいてもその価値に対する悟りが今一つ充分ではないからです。救いに対する確信がある人なら、毎日が喜びの連続です。私たちにつけてくださった“笑い”という名に見合うだけの、いつも笑いを欠かさない天の子になってみましょう。聖書は、イサクのような約束の子たちが集まったシオンもまた、喜びと感謝があふれるところだと伝えています。

主はシオンを慰め/そのすべての廃墟を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。/そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。 イザ51:3

シオンには、喜びと楽しみと感謝の歌声が響くといいました。この世では苦痛の声、うめき声やため息しか聞こえてきませんが、シオンだけは喜びを歌う歌声が絶えないということです。それが、シオンとこの世の違いだと言えます。

聖書の御言葉は、一点一画も消え去ることなく必ず全て実現されるといわれたので(マタ5:18)、シオンは必ず喜びと楽しさに満ちた場所でなければなりません。天国に行けば毎日喜ぶことばかりでしょうが、まずはこの地にいる時から喜びと感謝と楽しさあふれる生活を送れるように努力しなければなりません。

喜びを創造される母

幼い子供たちは、一日平均約400回は笑うそうです。それに対して大人はわずか8回にも満たず、さらに50代以上になると著しく回数が減少するそうです。

なぜ、子供の方が大人よりも笑う頻度が高いのでしょうか?幼い子供たちのそばには、笑いを創造してくれる母親が存在します。子供たちは母親の笑顔につられて笑い、母親が一緒に遊んであげるとキャハハと笑い、母親の「いないいないばあ」という声にはもう、笑いをこらえることができません。しかし大人になるにつれて、だんだん母親から離れて過ごす時間が長くなるので、笑う時間や回数も減るのではないかと思われます。

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。/初めからのことを思い起こす者はない。/それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。/わたしは創造する。/見よ、わたしはエルサレムを喜び、躍るものとして/その民を喜び、楽しむものとして創造する。わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を喜びとする。/泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。 イザ65:17-19

神様は新しい天と新しい地、すなわち天国で神様の民が永遠に喜び楽しむであろうといわれました。永遠なる天国に行けば、きっと喜び楽しむ声、神様を賛美する声があちこちに響き渡ることでしょう。逆に悲しむ声や嘆きの声、痛みに苦しむ声は苦痛の場所である永遠の火の池、地獄から聞こえてくる声です。それゆえ天の母は、まもなく天国に到達しようとする子供たちに、いつも喜び笑いながら福音生活をするようにと諭しておられます。

エルサレムによって喜びと楽しさが創造されると言われましたが、天のエルサレムは自由な身の女であられる“私たちの母”を意味しています(ガラ4:26)。母親の懐にいる幼子がよく笑うという理と同じく、神様が地上に建てられたシオンにはいつも笑いと喜びが絶えないのも、私たちのために喜びと楽しさを創造してくださるエルサレム母がいらっしゃるからです。

エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに、喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。/彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り/豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。主はこう言われる。/見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。/あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように/わたしはあなたがたを慰める。/エルサレムであなたたちは慰めを受ける。これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。/主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。 イザ66:10-14

神様はエルサレムと心を共にする子供たち全員に、彼女と共に喜び楽しんでほしいと頼まれました。人がこの世を生きている以上、心配ごともなくいつも幸せでいられる瞬間しかないわけではありません。しかし、喜びと楽しさを創造してくださるエルサレム母が共におられるので、私たちはこの地で生きていきながら直面する悲しみも、喜びとして昇華することができます。いつも母のことを考え、母の教訓と教えについて思い、互いに喜びを分かち合うことができ、幸せを分かち合わなければなりません。私たちを救ってくださった神様によっていつも喜び(ハバ3:18)、悲しみとため息の声も全て喜びと楽しさを歌う歌声に変えることが可能な場所が、シオンなのです。

考え方が生む違い

子供の頃から、同い年の子よりもひときわ低い身長がコンプレックスだった人がいました。ある日偶然、その人は本を読んでいて“変えられないことは、受け入れてしまうことが幸せになる秘訣である”という内容を見つけました。そこで、いくら努力しても変えられない低い身長の代わりに、自分の考えを変えてみようと思いました。

そうしてじっくり考えてみると、自分は背の高い人にはできない多くのことができることに気づきました。低い身長のおかげで、小学生がやっと着れるような服もいくらでも着ることができるし、空から降ってくる雨も、背の高い人たちよりもほんの少し自分には遅く落ちてくるということです。落ち着いて数えてみると、数え切れないほどたくさんのメリットがあったのです。ある意味少しバカげているように思えますが、考え方を少し変えてみることで、その人は一生悩むはずのコンプレックスを乗り越えることができました。

幸せか不幸かは、考え方で決まります。ある人はトゲがあるという理由でバラを嫌い、ある人はたとえトゲがあってもバラの花の美しさを好みます。あまり笑わない人は、バラのトゲに注目する人です。たくさん笑う人は、バラの花の美しさに注目する人だといえます。たとえ良いとはいえない状況や条件下に置かれても、考え方をほんの少し変えてみただけで不幸を幸せに変えることが可能なのです。

“顔はその人の考えを映し出す窓”という言葉のように、心が喜びで満たされている人はいつも明るい表情をしています。そのためか、私たち神様の教会を訪ねてきた世の人々が、聖徒たちの明るく華やかな笑顔について、異口同音に称賛してくれているようです。いつも美しい笑顔で迎えて、配慮を惜しまない姿を見た人々全員が、大きな感動を受けるそうです。喜びをお許しくださる神様が共におられ、心には天国への希望を抱いているので、その幸せ感が聖徒たちの顔にそのまま現れているようです。

たとえ今日一日が苦難だらけの一日だったとしても、私たちがまもなく入る天国は悲しみと苦痛がすべて消え去り、ひとえに永遠に永遠が続く喜びだけが湧き出る場所だということを忘れないようにしましょう。神様が私たちにお許しくださった環境や状況をこの世と同じ物差しで見つめずに、天国に行く者らしく捉えることができなければなりません。

10タラントンの秘訣、笑い

アメリカのある大学で、販売戦略に関する実験を行なったことがあります。3つの店舗に同じ種類と価格の商品を陳列しておいて、従業員の表情だけ変えながら販売率を比較してみました。その結果、顧客の85%が微笑みながら顧客を迎える店で買い物をしました。残りの15パーセントは無愛想な表情をした販売員がいる店を利用し、怒り心頭の表情をした販売員がいる店には、客は一人もいなかったそうです。

神様の国について知らせ、紹介する私たちも同じです。憂鬱な表情、怒った表情で福音を伝えれば、誰も聞こうとはしないでしょう。罪と死のくびきでがんじがらめにされ、悲しみとため息から抜け出せない人類を、喜びと楽しさと幸せいっぱいの世界に導いていく嬉しい知らせが福音なのに、福音を伝える使命を授かった私たちが憂鬱で怒りに満ちた姿で働いてもいいでしょうか?それは、神様の御心ではありません。

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの能力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンをもうけました。』主人は言った。『忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒によろこんでくれ…一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められると厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。 マタ25:14-30

神様は私たちに最後の福音のミッションを課す中で、それをタラントンにたとえられました。たとえでは、商売をしてさらなるタラントンを儲けた者は忠実で良い僕だと褒めてもらいましたが、一タラントンの儲けもなかった者は、持っていた一タラントンさえ奪われて外の暗闇に追い出されてしまいました。

聖書は、多くの人を救いの道に正しく導いた者は、天国でとこしえに天の星のように輝く栄誉をたまわると言いました(ダニ12:3)。多くの人々を天国に導いて十タラントン残した者は、どうしてそれが可能だったのか考えてみましょう。前述の大学での実験結果からしても、彼らは間違いなく神様の御心どおり、喜びと感謝の心で満ち溢れていたはずです。一方、一タラントンを預かったまま何もしなかった者は、喜びと楽しさよりは否定的な考えや疑いの心に縛られて、心配や憂い、不安ばかりが先立って何もできないまま虚しい歳月を送ったことは確かです。

一タラントン預かった者のように、まだ起きてもいないことに早くから怯えて苦しくなり、苦痛を呼ぶ愚かな者にならず、喜びと楽しさあふれる天国に思いを馳せ、困難な状況さえも幸せに変えていける賢い人になってください。神様の御言葉にしたがって笑いと喜びを実践すれば、全員が十タラントンを儲ける者となれるでしょう。

「『いつも喜んでいなさい』という父と母の教えに従って、今までどれくらい喜びながら生きてきただろうか?」これについて、一度振り返ってみましょう。この地での短い人生の中で感じる喜びと幸せを通して、神様は私たちに天国を少しでも味わわせ、天国に住むのにふさわしい姿に皆が変化し、永遠なる天国まで到達できるようにと願っておられます。だから、私たちに「イサクのような子になりなさい」という教訓を下さったのです。

この世は霊的な“逃れの町”であるため、悲しみと苦しみ、苦痛が存在しないわけではありません。そのような痛みや苦痛のうめき声を、喜びと楽しみをうたう歌声に変えていくことこそ、神様を信じる人々がすべきことだといえます。家庭でも、学校でも、職場でも「いつも喜んでいなさい」とおっしゃった神様の御言葉を実践し、さらには隣人、社会、国全体と世界中のすべての人々に、天の母が創造なさる喜びと幸せを伝える神様の子供たちになってくださることを願います。