私は盲人であったが、今は見える

291 照会

生まれた時から、すべての物を見ることができる人は、あまり感じられないでしょうが、目が見えない不自由さをいつも抱えて生きて来た視覚障害者ならば「見る」という価値については、誰よりもよく分かるはずです。一生涯、闇の中にいた人が、ある日目が開いて、明るい世界が見えるようになったら、その瞬間の喜びは、とても言葉では言い表すことができないでしょう。

同様に、霊的な暗闇の中にいた私たちの魂が、神様に会って霊的な目が開き、真理が見えるようになった時は、とても嬉しくて飛び跳ねたのではないかと思います。感謝があふれたはずです。しかし、命の御言葉をいつも見聞きしているうちに、時間が経てば経つほど、これらすべてが日常のことになってしまいます。

私たちが信仰の道を歩いていきながら、時には神様が下さった祝福に対して感謝することを忘れるときがあります。最初は大きな感動をもたらした命の真理の御言葉が、時間が経過するにつれ、日常のことのように変わってしまう愚かなことにはならないようにすべきです。真理を見ることができるようしてくださったエロヒム神様に、毎日より多くの感謝と栄光を帰すシオンのすべての聖徒の皆さんになられることを願います。

見せて、信じさせる神様

ヨハネによる福音書には、生まれつき盲人だった者が、イエス様に出会って見えるようになった事件が記録されています。イエス様は泥をこねて彼の目に塗られ、シロアムの池に行って洗いなさいと言われました。御言葉に聞き従った盲人は、目が開いて、明るい世界に接するようになりました。

目の見えなかった人の目を開けたことは、前代未聞の驚くべき祝福であり、キリストがなさることに対する預言成就でもありました(イザ42:1-7)。それでも、ファリサイ派の人たちは、安息日に仕事をしたという理由で、イエス様を罪人とみなしました。目が開き、初めて世界が見えるようになった人は、彼らの尋問に、次のように答えました。

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」…神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 ヨハ9:25、31-33

盲人だった人は、イエス様が誰であるかは分からないが、その方が教えてくださったとおりにしたところ、生まれつき目が見えなかった自分が、今は見えるようになったのだと言いました。「一つ確かなことは、私は盲人であったが、今は見えるということです。」

初めて世界を眺めた時、彼の心には言い表せない喜びと感動が湧き上がってきたはずです。目を開けて見えるようにしてくださったイエス様に、あふれるような感謝の気持ちを抱いたことでしょう。彼は自分の目を開いてくれた人が、神様から来られた方に違いないと確信しました。

このように自分の信仰を述べると、イエス様に敵対する人々は彼を外に追い出しました。そのことを聞いたイエス様は、彼に会って、御自分がどなたなのかを教えてくださいました。

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 ヨハ9:35-38

盲人であったときは、イエス様に会っても、その方が誰なのか見分けられませんでした。しかし、目が開いて見えるようになると、目を閉じていたときとは全く異なる状況が起きました。色を見分けることができ、前にいる人姿かたちも見分けることができ、前におられるイエス様が神様であられることも分かるようになりました。イエス様が自分の目を治してくださった恩人であることが分かるようになり、彼は信仰を持ち、キリストを受け入れるようになりました。

真理を知る前は、私たちも霊的な盲人でした。たとえ、目は開いていたとしても霊的なものを見分けることができませんでした。神様に正しく礼拝したくても、神様が定められた礼拝日がいつなのかさえ分かりませんでした。まるで盲人のように、暗闇の中で生きていた私たちに、天の父と母が来られ、私たちの霊の目を開いてくださいました。安息日を見せてくださり、過越祭を見せてくださり、命の実を私たちにもたらしてくださったエロヒム神様を見せてくださって、私たちが今は見えるようになり、キリストであられる“霊”と花嫁に対する真の信仰が持てるようになりました。

見ても認めず、聞いても理解できない

新約聖書を見ると、二千年前、イエス様に出会った多くの人々がいました。中には、キリストを悟って受け入れる人がいるかと思えば、事あるごとに誹謗中傷して敵対する人もいました。イエス様は、まさに目の前におられるキリストを見分けることができない彼らを指して、見るには見るが認めることができない霊的な盲人たちだと言われました。

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緖に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」 ヨハ9:39-41

イザヤの預言は、彼らによって実現した。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 マタ13:14-16

そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 マコ4:11-13

見ても分からないので、盲人でなくて何でしょうか。聖書にすべて預言されているので、イエス様がなさることを見れば、キリストであられることを即座に見分けて受け入れられそうですが、当時のユダヤ人たちは、イエス様のことが見分けられませんでした。それで、イエス様は彼らを盲人だと言われ、ファリサイ派の人、律法学者、大祭司のような宗教指導者たちのことを指して「盲人が盲人を道案内したら、二人とも穴に落ちてしまう」と言われました(マタ15:14)。

開かれた目と、閉ざされた目

神様が人となってこの地に来られました。王の王が、普段お召しになっていた栄えある衣装を脱がれ、平民の服装にしばらく着替えて来られました。しかし、神様を信じるという多くの人が、人の姿でこの地に来られた神様を見分けることができませんでした。霊的な目が開いていない彼らは、石で打ち殺そうとまでしました。

わたしと父とは一つである。」ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 ヨハ10:30-33

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。… マコ2:5-12

「私と父とは一つである」とおっしゃって、神様だけがお持ちの罪を赦す権威により罪を赦してくださったら、イエス様がまさにどなただということですか?御自分が神様であることを何度も教えてくださっているのに、人々は石を持ってイエス様を打ち殺そうとしました。霊的な目が完全に遮られていたからです。

聖霊時代にも、“霊”と花嫁が肉体の幕屋を被られ、御自らこの地に来られました。霊的な目が閉じていたら、見ても認めず、聞いても理解できません。私たちと共におられる“霊”と花嫁が下さるすべての御言葉を、権威あるものとみなして従う人がいるかと思えば、軽んじて通り過ぎる人もいます。御言葉を疎かにする人もまた、見ても認めず、聞いても理解できない状態です。

私たちは、霊的な目を開いて神様を正しく見分け、受け入れなければならないでしょう。霊的に見る目と聞く耳を持っている人は、神様を畏れ敬う心構えが違い、姿勢と行動が異なります。これで開かれた目を持った人と閉ざされた目を持った人、開かれた耳を持った人と、閉ざされた耳を持った人が分けられます。

霊的な目が開かれた人の喜びと、受ける祝福

以前、私たちは盲人でした。しかし、今では見ることのできる目を持つようになりました。それでは、喜びと感謝で神様を敬っているのか、知識的に知っているだけなのか、今、自分の姿を振り返ってみましょう。霊的な目が開かれはしましたが、日常のことのように感じられる目では、神様のお導きに正しく従って行くことはできません。昨日までは目が見えない人が、今日、目が開かれたように、ときめきと感動の中でエロヒム神様を受け入れて、導いて行かれるその道に完全に従って行くべきです。

イエス様の初臨当時、ザアカイの心がそうでした。徴税人だった彼は、イエス様が自分の村を通り過ぎられるという噂を聞いて、イエス様にお会いしようとしましたが、背が低くて、人波に遮られ見ることができなかったため、いちじく桑の木の上に登りました。イエス様が通り過ぎられながら、彼を見て呼ばれ、彼の家に泊まると言われました。その日、ザアカイの心は喜びに満たされました。喜んでイエス様をお迎えした彼は、人々から不当に税金を徴収したことがある場合は、4倍にして返済し、自分の財産の半分を貧しい人々に分け与えると約束しました(ルカ19:1-10)。

使徒パウロは霊的な目が開くと、イエス様はもともと神様の身分であられると証しし、いかなる苦難や逆境の中でも感謝しながら福音を宣べ伝えました。使徒ペトロも人の姿で来られたキリストを正しく見分け、その御前で自分の信仰を告白しました。

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 マタ16:15-19

霊的な目が開かれた人には、神様がこのようにとても大きな祝福を施されました。天の父を父と、天の母を母と呼ぶ私たちは、果たしてペトロのように開かれた目で、神様を見ているのか考えてみましょう。神様の御言葉よりも自分の考えや感情をもっと優先させていたら、まだ目を完全に開いたと言うことはできません。目を閉じていないで、目を開いて神様を眺めるべきです。

アラムの軍隊が預言者エリシャを捕らえようと、町を包囲した時、エリシャの召し使いはアラムの戦車と兵士を見て恐れ震えました。エリシャの祈りで神様が霊の目を開いてくださると、召し使いは敵よりもはるかに多くの天の軍勢が自分たちを護衛している光景を見ました(王下6:8-17)。味方は誰もいないと思っていたのに、天の軍隊の保護を受けているという事実を悟ってからは、恐怖が消え、大きな勇気が生じました。

目を閉じていたら、周辺に誰もいないように感じられます。しかし、自分一人でこの道を歩いているのではありません。私たちのそばには、福音の道を同行するシオンの兄弟姉妹がいます。天の父と母が私たちと一緒におられ、数多くの天軍天使たちが、私たちが福音を伝えるすべての現場で一緒に手伝ってくれています。

今からは、霊的な目をさらに大きく開いて、神様が働かれる霊の世界を眺めてみましょう。すべてのことは、預言どおりに成就しています。預言を眺めながら、預言のすべての道を導いて行っておられる“霊”と花嫁を心から悟って、どこに導かれても変わらぬ信仰を持って天国に向かって走って行ってくださるように心からお願いします。

私たちの周りには、まだ霊的な目が遮られた人々がたくさんいます。彼らの目もすべて開いてあげましょう。神様が私たちに彼らの目を開いてあげられる権勢を与えられたので、全世界のシオンの家族がサマリアの全土と地の果てまで行って、この地に来られた天の父と母を伝えています。

天国は日々近づいています。開かれた目で神様を見て、神様が私たちに許された数え切れぬほどの祝福を目にしながら、喜びと感謝で御言葉に従順に従い、福音の使命を全うするシオンの家族になられることを願います。