神様を思いなさい

237 照会

年が変わって月が変わる度に、各自それなりにさまざまな計画を立てるでしょう。私たち自らの能力に頼るよりは、神様に頼るのがすべての計画を成し遂げる近道です。仕事の計画は人の手によって立てたにせよ、その仕事を成功させる方は神様だということを私たちは聖書を通じて、私たちの生活を通じて確認しています。

実を見る時根を思いなさい

人々は実を豊かに結んだ木を見る時、目に見える実と枝だけを見て、見えない根の役目と力に対して関心を持たないことがよくあります。しかし私たちは、実や実を結んでいる枝に気をつかうだけでなく、美しい実を結ぶまで水と養分を供給した根の存在を考えなければなりません。木の枝がいくらしっかりして丈夫であっても、根という存在がなくては木は大きくなりません。そして決して実を結ぶこともできません。

私たちも福音の実を結びながら、見えない所で私たちを助けて力を下さる神様の御力を忘れて、実を結んだ枝として現われる私たち自身を先に考える時があるのではないかと思います。事が成就する可否は、全面的に神様にあるのであって、私たちの能力と智略にあるのではありません。だとすれば、私たちは常に神様を先に考えなければなりません。神様が私たちが住んでいるこの世を経営され、すべての国、すべての民族を導かれるという事実を悟らなければなりません。このような事実を悟るようになる時、私たち各自の目標と、また私たちが持っている福音の目標が確実に成し遂げられるのです。

旧約聖書のダニエル書に登場するネブカドネツァル王の経験を通じて、今日の私たちをもう一度悔い改めて、顧みる時間を持つようにしましょう。

ネブカドネツァルの夢

ダニエル2章で世界歴史について重要な夢を見たネブカドネツァル王は4章でもう一度自分に起こる重要な夢をみました。彼は夢に一本の木が天をつく程高々と美しく茂って、豊かな実を結んで鳥は巣を作り、木陰に野の獣は宿り、人々がそこで食物を得るのが見えました。しかし聖なる見張りの天使が天から降って来て叫ぶ声を聞きました。「この木を切り倒し、枝を払い/葉を散らし、実を落とせ、その木陰から獣を、その枝から鳥を追い払え、ただし、切り株と根は地中に残し…こうして、七つの時が過ぎるであろう。」

バビロンの賢者と占い師、星占い師らがこの夢を解釈することができないので、王はダニエルを呼んで夢を解き明かすようにしました(ダニ4:4-19)。ダニエルの夢の解き明かしは次のようでした。

…「王様、この夢があなたの敵に、その解釈があなたを憎む者にふりかかりますように。御覧になったその木、すなわち、成長してたくましくなり、天に屆くほどの高さになり、地の果てからも見え、葉は美しく茂り、実は豊かに実ってすべてを養うに足り、その木陰に野の獣は宿り、その枝に空の鳥は巣を作る、その木はあなた御自身です。あなたは成長してたくましくなり、あなたの威力は大きくなって天にも屆くほどになり、あなたの支配は地の果てにまで及んでいます。また、王様は聖なる見張りの天使が天から降って来るのを御覧になりました。天使はこう言いました。この木を切り倒して滅ぼせ、ただし、切り株と根を地中に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて野の草の中に置け。天の露にぬれるにまかせ、獣と共に野の草を食らわせ、七つの時を過ごさせよ、と。さて、王様、それを解釈いたしましょう。これはいと高き神の命令で、わたしの主君、王様に起こることです。あなたは人間の社会から追放されて野の獣と共に住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれ、こうして七つの時を過ごすでしょう。そうして、あなたはついに、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままにそれをだれにでも与えられるのだということを悟るでしょう。 ダニ4:16-22

私たちは神様を信じていながら、時に神様がつかさどることを悟れず働く場合があります。根は常に隠れていて、現れるのは枝であり、枝の先に結ぶ実であるからです。

見えない根が木の養分を供給しているように、神様が経営なさることを悟った時王の御国が堅固になると仰せになりました。神様がネブカドネツァル王に見せられた夢の核心は、神様は誰でも王位に立たせることも廃位されることもすべての国を強くもされ、弱くもされるなど神様が人間の国をつかさどり経営なさるという教訓です。

「自分が成したことだ」と誇った時、離れ去った神様の御恵み

ネブカドネツァル王はこのような教訓を聞いても忘れて、約一年過ぎたある日、宮の城を歩みながらバビロン城を眺めるようになりました。瞬間彼は得意になって「この大バビロンはわたしの力と権勢が建設したのではないか」彼の沒落はその時から始まったのでした。

…十二か月が過ぎたころのことである。王はバビロンの王宮の屋上を散歩しながら、こう言った。「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの權力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すものだ。」まだ言い終わらぬうちに、天から声が響いた。「ネブカドネツァル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた…この言葉は直ちにネブカドネツァルの身に起こった。彼は人間の社会から追放され、牛のように草を食らい、その体は天の露にぬれ、その毛は鷲の羽のように、つめは鳥のつめのように生え伸びた。その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた…栄光と輝きは再びわたしに与えられて、王国の威光となった。貴族や側近もわたしのもとに戻って来た。こうしてわたしは王国に復帰し、わたしの威光は増し加わった。それゆえ、わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、梶る者を倒される。 ダニ4:26-34

「わたしがした」という考えを持った瞬間、ネブカドネツァル王のすべての知恵は去って獣の心を受けて王の座から追い遣られたのです。7年間獣のような生活をした彼は、ふと人間のか弱さを悟って神様を思うようになりました。

「私自身も自分で統制することができないのに、いかにバビロン城を自分が建設したと言えるだろうか。このすべては神様の成就の賜物である。」このように悟った時、獣の心が去って、失った知恵と聡明が帰って来たので、彼は再び王位について国政をつかさどるようになりました。

「わたしがした」という考えは大変危険な発想です。自ら自身に驚いて感嘆した時、これが人間の心を覆うサタンの火矢だということを悟らなければなりません。ネブカドネツァル王が「わたしがした」という考えを持った瞬間、すべての知恵は去って獣の心を受け継いで獣のような生活をしたように、私たちも神様を忘れて「わたしがした」という獣の心を持たないように、神様に頼る恵み深い人にならなければなりません。

私たちが信仰の道を歩みながら、真理に対する自負心を持つのは望ましいことです。しかし決して自ら高ぶってはなりません。自分の能力でシオンの家族をたくさん見つけ、自分が神様の御言葉を上手に伝えたから、シオンの家族を感動させたのではありません。ひとえに神様に頼ったので神様が能力を下さり、状況を成り立たせて下さったおかげで今日の私たちが存在するのです。私たちは自分自身の一人の魂すら正しく導く能力も持っていない、か弱い存在ではありませんか。

神様が御業を成し遂げられるにおいて、特別な人を要するのではありません。ネブカドネツァルでなく他の人をバビロンの王に選ばれても、御計画どおり成就されたでしょうし、彼でなく他の人に栄光を下さることもあり得たでしょう。イスカリオテのユダが12人の使徒の中から脱落した時も、マティアという弟子がその席を満たしました(使1:15-26)。世界60億の人口の中でこの席に来る人がいなくて私たちを選ばれたのではありません。私たちが他の人々より、さらに抜きん出て優れていたためにお召し下さったのでもありません。

神様がすべてのものをつかさどられ、私という存在も、私の家庭も、私たちの教会も、皆導いて下さるという事実を悟った時、個人も家庭も教会も成り立つのです。ネブカドネツァル王もこの事実を悟って初めて、その国が堅固になりました。たとえ小さくてか弱い存在でも、私たちに「最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる」(イザ60:22)という預言が成就されるのも、私たちが神様を思うからです。

「私がした」といった時失ったカナン

イスラエルの民をエジプトから解放させた偉大なる預言者として記録されているモ-セは、いざカナンを目前にして入ることができませんでした。これは彼がネブカドネツァル王のように「わたしがした」という考えを抱いてそのような言葉を口にしたからです。

さて、そこには共同体に飲ませる水がなかったので、彼らは徒党を組んで、モ-セとアロンに逆らった。民はモ-セに抗弁して言った。「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緖に死に絶えていたらよかったのだ。なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか…主はモ-セに仰せになった。「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」…モ-セとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」モ-セが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。主はモ-セとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」… 民20:2-13

民が水がないからといって、あらゆる暴言でモ-セとアロンを恨んだので40年間民から恨み言を聞いてきたモ-セの忍耐にも限界がきました。腹が立ったモ-セは、一生一大の過ちを犯してしまったのです。

「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」

神様が水を下さるのではなく、モ-セとアロンが水を出すように言ったのです。他でもなく40年間神様の近くで仕えたモ-セが、そのように言ったことに対して神様は大変咎められました。神様が使役されるという事実を忘れてしまったら、ちょうどネブカドネツァル王が栄光と権勢、自分が大事にしていたすべてを失って獣のように生活したような不幸を自ら招くので、神様は「私がした」という考えに対して厳しく責められ警告されたのです。結局、このことからモ-セとアロンはカナンに入ることができず、荒れ野で一生を終えたのです。

主はまたモ-セに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えた土地を見渡しなさい。それを見た後、あなたもまた兄弟アロンと同じように、先祖の列に加えられるであろう。ツィンの荒れ野で共同体が争ったとき、あなたたちはわたしの命令に背き、あの水によって彼らの前にわたしの聖なることを示そうとしなかったからだ。」… 民27:12-14

神様を忘れて「わたしがした」と言ったそのことが、結局カナンの地に入れなかった原因になったのです。天のカナンに入るのを望む私たちが、正に警戒すべきことです。

モ-セやネブカドネツァル王は、歴史から教訓を得ることができませんでしたが、私たちは6千年の間続けられた聖書の歴史を見ています。ネブカドネツァル王が「わたしがした」と言った時離れ去った神様の御恵み、モ-セが「私たちが水を与える」と言った時入れなかったカナン、過去あったこのようなできごとは、この時代信仰の道を歩む私たちの教訓と戒めのために聖書に記録されてあります。

ひとえに神様に栄光を帰しなさい

地球は、神様が天の王の系統を引く祭司たちを訓育され、鍛錬されるるつぼのような役割をする所です。すべての時代と業、私たちの周囲に絡み合っている多くの因縁と周囲の環境や条件等、すべてを組み合わせて現在の自分自身を顧みましょう。神様は私たちの不足さを御存知の上私たちを鍛えられるために、各自に最も相応しい環境を施され、私たちに祝福を与えるためにあらゆる過程を導かれたのです。

したがって私たちは、常に神様と同行するように祈らなければなりません。小さくてか弱い私たちを選ばれ、すべての状況を造って鍛えて下さる御恵みに感謝と栄光と賛美をたてまつらなければなりません。

聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる。あなたたちの神、主に栄光を帰せよ/闇が襲わぬうちに/足が夕闇の山でつまずかぬうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし/暗黒に変えられる。あなたたちが聞かなければ/わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ。 エレ13:15-17

自分に栄光を帰して滅亡する彼らを見て神様は悲しまれ、痛哭されました。ですから私たちは、ひとえに神様に栄光を帰さなければなりません。福音の御業は私たちが成就するのでなく、神様が成就されるのです。私たちはその過程で召され、神様の御言葉が永遠の命だということを悟って聞き従うだけです。

宇宙を経営される神様がなぜ敢えて取るに足らない人間に神様に栄光を帰せと仰せになったのでしょうか。これは私たちのためです。傲慢は滅亡の先鋒であって、天国は神様に栄光を帰す謙遜な人だけが行く所であるからです。

大小問わず業の成就は神様の御力によってこそ成就されるということを悟って、神様に栄光を帰す習慣を持たなければなりません。詩編を通じて神様を常にほめたたえたダビデは、このような習慣を持っていた信仰の先輩でした。

神様を先に思う者が神様の御心に適う者

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 詩121:1-2

わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって…主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。主よ、わたしたちを御心に留め/祝福してください。イスラエルの家を祝福し/アロンの家を祝福してください。主を畏れる人を祝福し/大きな人も小さな人も祝福してください…わたしたちこそ、主をたたえよう/今も、そしてとこしえに。ハレルヤ… 詩115:1-18

このような心を見通された神様は、ダビデを愛されました。彼は神様を常に思い、頼り神様にのみ栄光を帰す真実なる心があったために、戦場に出て争う時ごとに勝利を得、神様の御心に適う者に認められました。

ダビデのように常に神様を思い、すべての栄光を神様に帰す時、私たちがもっと強盛で、世の万民の中で秀でた者になるのです。このような心構えで真理を伝える時、真理の光はもっと輝くでしょう。

人間は自分でも知らずに傲慢な心が宿りがちです。私に能力があって実を結び、私が秀でているので職分にあずかったと思いがちです。これがネブカドネツァル王が持った心であって、モ-セが持った心です。しかし神様が私を選んで神様の民として下さったことに感謝して喜ぶのなら、いかに神様の栄光を後にして自分に栄光を帰す傲慢な心になり得るでしょうか。

神様が一緖にいらっしゃらなかったら、私たちは何もできません。神様は私たちの光です。光がなくては目があっても見ることができないし、足があっても正しく歩くことができません。

神様を思う小さな心から、私たちの信仰が育った時、新しい契約の真理がもっと大きく栄を発することができ、真理の中で恵み深い兄弟姉妹の連合と愛を顕現することができます。そうでなく「自分」という存在が強く生きていると、私の中に神様はいらっしゃらずに、ひたすら「自分」のみ存在するようになります。そうなると、私たちは十四万四千人が一人一人個体であって決して一つになることができません。

聖書は、神様がすべての業を導いて行われることを悟った時その国がますます盛大になるという事実を教えています。この事実を悟って常に神様を思いながら、御父様・御母様が下さった貴い真理の御言葉の中で恵み深く福音を成就して行く私たち全てになるよう願います。