神様が見て良しとされた

10,738 回視聴

私たちは永遠の天国を目指して信仰の道を歩んでいます。信仰の荒れ野には人の目には良く見える信仰があるかと思えば、神様の目に良いとされる信仰の人生を生きている人々もいます。

初代教会の歴史を見ると、使徒たちと聖徒たちが「人に取り入ろうとしているのか、それとも神に取り入ろうとしているのか」と反問しながら、神様が喜ぶ方向に信仰の道を定めた場合が見られます(ガラ1:10)。この時代、私たちも同じです。私たちが神様の品性に加わろうと努力し、母の教えに従って常に笑って生きようとする理由も神様の目に良いからです。神様が見て良い人生を選択しなければならないのに、時には自分の立場で、人の観点から見て良い方の人生を選択する時があります。私たちはどんな場合でもいつも「神様が見られて良かった」と記録される信仰の人生を生きていくようにしましょう。

神様が見て良しとされた創造の歴史

神様は御心を持ってこの地球と天地万物を創造されました。創世記1章に現れた神様の創造の歴史を見ると、万物が神様の御言葉に順応して建てられたことが分かります。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。 創1:3-5

神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。 創1:9-10

天地万物を創造される時、神様が最初に光を作られました。神様の御言葉通りに作られた光は、神様が見て良しとされました。大空の上の水と大空の下の水を分けろと命じられた通りそのようになり、海と陸を分けるようにと言われ、その通りになった時も神様は見て良しとされました。神様の御言葉通りに進み成されるすべての過程を、神様が見て良しとされたと聖書は記録しています(創1:11-31)。

天地と万物が神様の御言葉に順応するように、万事が神様の目に良しとされ、神様の基準で良い方向に進んで行かなければなりません。個人の考え通り、人が見て良しとするようにすると、従順ではなく不従順となり神様の戒めと掟と法に従えず不法を追い求めることで、滅亡を自ら招きながらもその道をむしろ良く思う愚かなことを犯すことになります。

私たちは神様から見て正しい道を選択し、従う信仰を堅持しなければなりません。神様が見て良しとされた先進たちの信仰の行跡を通じて、今日この時代を生きていく私たちの信仰の姿を一度点検してみましょう。

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、 ロマ15:4-5

聖書には神様が見て良しとされた様々な出来事が記録されています。私たちを救いの道に導くために、神様は信仰の先進たちの行跡を聖書に記録され、彼らを通じて神様の目に良い道がどんな道なのかを私たちに教訓されています。

神様が見て良しとされた先進たちの信仰

昔、ダニエルの三人の友人であるシャドラクとメシャクとアベド・ネゴが偶像を崇拝しろという王の命令を拒否し、燃え盛る炉の中に投げられました。炉に投げられることも恐れず、神様の御言葉に従う彼らを神様は見て良いと思われました。命をかけて御言葉通りに遂行するその信仰が神様の目に良しとされたので、燃え盛る炉の中から彼らを救ってくださったのです(ダニ3:1-30)。

ダニエルも神様の目に良い信仰の行跡を残しました。ダニエルはエルサレムに向かって開かれた窓の前で一日三回、神様に祈りを捧げました。すると政敵が彼を害そうと企て、王以外の神や人に請い求める者は条件なしに獅子の洞窟の中に入れるようにする新しい法を作りました。この事実を知っていながらもダニエルは神様への祈りを止めませんでした。休まず祈りなさいという神様の御心に従って祈りに専念するその姿も、やはり神様の目に良しとされたのです。神様は獅子の洞窟に投げ込まれたダニエルを救われ、彼を訴えた者たちに獅子の餌になるようにさせられました(ダニ6:1-28)。

神様が見て良いとされる行いをする人々を神様は助けてくださり、彼らにより大きな栄光を許されました。聖書を綿密に分析してみると、神様がくださった御言葉通り、被造物が従った時「神様が見て良しとされた」と記録されたということが分かります。御言葉通りに行い、心と命と誠を尽くして御言葉に従うこと自体が、神様の目に良い行為です。

信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 ヘブ11:33-38

患難と迫害にも信仰を守った初代教会の聖徒たちもやはり神様が見て美しく思われました。彼らはローマの弾圧と圧制の中でも屈せず、どんな困難と苦難があっても神様の御言葉に従いました。神様がくださった御言葉を絶対的に信じ、生命より大切に思ったため、時には荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩き、時にはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭い、殺されながらも霊的に勝利した、真理の勇士たちになったのです。

ローマ政府と手を組んだローマ・カトリックは、神様が見て良しとされる道より世の見た目に良い道を選びました。そのため、聖書にない日曜日、クリスマスなどローマ太陽神教の教理がまるでキリスト教の教理であるかのように教会に流入し始めました。しかし真理を愛した聖徒たちはそれに迎合せず最後まで真理に従いました。彼らは神様が見て良しとされる道を選びました。

神様の目に良しとされる、霊と花嫁に従う聖徒たち

私たちも彼らのように、どんな状況に置かれても神様が見て良しとされる道を選ぶようにしましょう。神様は私たちに聖書という貴重な贈り物をくださいました。神様の御言葉である聖書は、救いに至る知恵が含まれています。

また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。 二テモ3:15

神様は聖書を通じて私たちに救いのメッセージを伝えてくださり、救いに進む方法を教えてくださいました。このような聖書の特性を理解するなら、聖書に記録された神様の御言葉にそのまま従うことで、神様の目に良い人生を送っていかなければなりません。

この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。 黙22:18-19

神様の御言葉に他の内容を追加してもいけないし、ある言葉を抜いてもいけません。どんな御言葉にそのまま従う時、神様が「見るに極めて良かった」とおっしゃるのか、すぐ前の一節でその答えを得ることができます。

“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。 黙22:17

霊と花嫁の呼び掛けに応じる人々が神様へと進んで行き、命の水の真理の中で暮らすようになる瞬間が、神様が見て最も良い場面になります。光あれと言われ光があり、大空の上の水と大空の下の水を分けろと命じられた通りそのように分かれた様子も神様の目に良しとされましたが、この時代には霊と花嫁が来なさいと言われる時、呼ばれるその声にそのまま従順に進んで行く人々が神様の目に最も美しい人々です。

母による約束の子

神様は最後の聖霊時代に霊と花嫁として来られ、私たちに約束を与え、私たちを約束の子供としてくださいました。

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。 ガラ4:28-29

神様が私たちにくださった約束は永遠の命です(一ヨハ2:25)。永遠の命を約束された「約束の子供」たちは迫害を受けることになっています。受けた約束があまりにも幸いで貴重なものなので、貴重なものを奪おうとサタンが妨害するのです。この約束だけは神様が過去の立派な信仰の先進たちではなく、今日の私たちのために準備しておかれました。

…荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。 ヘブ11:38-40

世が耐えられないような大きな信仰を持っていた初代教会の聖徒たちも、信仰によって認められましたが約束は受けられませんでした。なぜなら命は唯一母によって誕生するように、天の母によって約束の子供たちが登場するからです。霊と共に命の水を与えてくださる、花嫁であられるエルサレム天の母が登場する前には、イサクのような約束の子供が誕生できません(黙21:9-10、ガラ4:26-31)。

今日、私たちは神様が見て良いと思われる、女の残りの子孫です(黙12:17)。イザヤ書では私たちの姿を次のように預言しています。

エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り/豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。 イザ66:10-14

お母さんの胸に抱かれお乳をたっぷり飲んで、お母さんと一緒に楽しんで過ごしている小さな子供のことを考えてみてください。それ以上の大きな満足と喜びはないでしょう。エルサレムを愛する者たちに、このような幸せと祝福が許されました。彼らは霊と花嫁の呼びかけに応じた人々です。

エルサレムを愛する人たちなら、神様の目にどう思われるでしょうか。彼らは神様が見て最も良く愛らしい者たちです。霊と花嫁として臨まれた神様の御言葉に絶対的に従って、その教えを守るために最後まで努力する人々こそ、神様の約束の子であり自由な身の女の子です。

御言葉通り、母に従う美しい信仰の道

この時代、神様はエルサレム天の母の存在を私たちに教えてくださいました。また、聖書の教えを通じて、わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのであると言われ、この聖書の御言葉から絶対に付け加えても、取り去ってもならないと言われました。

聖書の御言葉を加えたり取り去ったりしない中で、母の存在を論じることになれば、母なる神様を当然信じなければなりません。聖書の御言葉は、私たちに母なる神様がおられるという事実を最初から最後まで一貫して悟らせてくれています。地上の理は天にあるものの「写しと影」(ヘブ8:5)という御言葉に照らしてみると、地上に母がいるのに天に母がいないという主張は影はあるのに実物がないという詭弁にしかなりません。

私たちはエルサレムの母を信じる信仰を持って、その教えを恵み深く担い受けて、従わなければなりません。「母の行くところに私も行き、母の民が私の民になります、最後まで母と共にします」と言ったルツの孝行がなぜ聖書に記録されたのか考えてみてください。聖書は救いに至る知恵を与える本です。御心を正しく理解し、聖書の場面、場面を見ると、救いと無関係な部分はありません。

神様が見て良しとされる信仰の道を私たちが歩いているということに、さらに自負心と誇りを持ちましょう。今日を生きている私たちは約束の子孫として選ばれ、無限なる大きな祝福を受けました。その祝福は母によってもたらされたものです。この祝福がどれほど大きいものかを自覚し、私たちを女の残りの子孫として永遠の命の祝福と約束へと進むことができるように導いてくださったエロヒム神様に、さらに感謝と栄光と賛美を捧げましょう。

神様が見て良しとされる存在になるためには、御言葉通りに生きなければなりません。父と母の道を歩むこともやはり御言葉通りに生きる人生だと言えます。神様が行われた模範に従って、互いにを共にし、心とを一つにして神様を敬えるように、私たちに聖書をくださったのです。女の残りの子孫、約束の子孫として許された永遠の命の冠を最後まで堅くつかみ、喜びと歓呼の中で輝かしい天の栄光へと進むシオンの家族になってください。