「罪の赦し」と「救い」はどんな差があるのでしょうか?

14,851 回視聴

罪の赦しと救いは同じ意味です。これは私たちの根本が分かれば易しく理解することができます。

私たちに必要な救いは罪の赦し

「救う」という言葉は困難や危険に陥った人を助けてあげることを意味します。病んで苦しむ人を助けて治すようにしたり、命を失う危機にさらされている人を助けることも一種の救いです。しかし、神様が施される救いは、肉の救いではなく魂の救いであって、魂の救いは私たちが信仰生活をする上での目的でもあります。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。一ペト1:8-9

私たちが魂の救いを受けなければならないということは、私たちの魂が困難や危険に陥っている状態にあるということです。私たち魂がさらされている危険はまさに罪による永遠なる死です。

では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。ロマ3:9-10

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。ロマ6:23

人類は罪によって永遠に死ぬしかない存在です。ですから、私たちに一番必要なのは罪の赦しです。罪の赦しを受けなくては永遠なる死の刑罰を免れることができません。

罪を犯して追い出された天の天使たち

聖書の記録によれば、人類が死に至った一次的原因はアダムの犯罪です。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。ロマ5:12

この御言葉どおりにだけ見れば、アダムの犯罪のせいで私たちまで死ぬことになったと悔しがる可能性もありますが、アダムの犯罪は私たちが天で犯した犯罪を圧縮して見せているモデルです。

人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。主なる神はこう言われる。お前はあるべき姿を印章としたものであり/知恵に満ち、美しさの極みである。お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた。ルビー、黄玉、紫水晶/かんらん石、縞めのう、碧玉/サファイア、ざくろ石、エメラルド。それらは金で作られた留め金で/お前に着けられていた。…お前が創造された日から/お前の歩みは無垢であったが/ついに不正がお前の中に/見いだされるようになった。お前の取り引きが盛んになると/お前の中に不法が満ち/罪を犯すようになった。そこで、わたしはお前を神の山から追い出し/翼で覆うケルブであるお前を/火の石の間から滅ぼした。お前の心は美しさのゆえに高慢となり/栄華のゆえに知恵を堕落させた。わたしはお前を地の上に投げ落とし/王たちの前で見せ物とした。エゼ28:12-17

この地に生きていたティルスの王が、天のエデンで罪を犯して追い出されたケルビム天使だったという御言葉のほかにも、多くの聖句を通じて私たちの魂が大きな罪を犯して天から追い出されて下りて来た天使だったことがわかります(イザ14:12-15、黙12:7-9)。結局、アダムとエバが善悪の木の実を食べてはならないという神様の法を破ってエデンから追い出された事件は、天の天使だった私たちがそのような罪を犯して天から追い出されたということを知らせる模型的な歴史です。言い換えれば、アダムの犯罪は私たちが天で犯した罪を表し、アダムの犯罪で私たち全員が死ぬようになったという御言葉は、私たちもアダムのような犯罪を犯して永遠に死ぬしかない刑罰を受けるようになったという意味です。

キリストが施された罪の赦し

私たちは天で「死」という判決を受けるほどの重大な罪を犯した大罪人です。

しかし、罪人の身代わりになる誰かの犠牲があったら、滅ぼされる予定だった罪人だとしても罪の赦しを受けることができます(王上20:42、ヘブ9:22)。

「自分の民を罪から救う」者としてこの地に来られたキリストは、私たちを救ってくださるために私たちの代わりに贖罪の献げ物として犠牲になられました(マタ1:21、マタ20:28)。十字架で犠牲になり流された尊い血によって、私たちの重い罪の代価を支払ってくださり、私たちが罪から解放され、あれほど望んていた救い、すなわち罪の赦しが得られるようになりました(イザ53:5-6、黙1:5)。 

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。…一テモ1:15

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。エフェ1:7

キリストの血の力をまとった罪の赦しは、人々が考えるように、単純にキリストの十字架の犠牲で私たちの罪が赦されたことを信じるだけで得られるものではありません。完全な罪の赦しの祝福を受けるためには、キリストの血に与らなければならず、その方法は、新しい契約過越祭の中に込められています(一コリ10:16)。

イエス様は過越祭のぶどう酒をくださりながら、罪が赦されるように流される契約の血であると言われました(マタ26:17、26-28)。この御言葉を信じてイエス様が新しい契約として立てられた過越祭を守ってこそ罪が赦され、真の魂の救いに至ることができます。

神様は天の罪人たちが罪の赦しを受けて永遠な死の刑罰から脱し、天の故郷で永遠な幸せを享受できるようになさるためにこの地まで来られました。私たちのために天の栄光も捨てられ、あらゆる苦痛と蔑視も厭われず、ついには命まで捨てられたエロヒム神様の崇高な犠牲と愛を覚えながら、新しい契約の過越祭を広く伝えなければなりません。