福音の兵士

266 照会

聖書には戦争の歴史が多く記録されています。神様が共におられるかどうかによって、ある時は勝ち、ある時は負けた数々の記録は、私たちがどんな信仰と姿勢で霊的な戦争に臨まなければならないのかを見せてくれる内容です。

神様は、私たちを福音の兵士として召してくださいました。福音の兵士たちに必要な精神的姿勢と準備は何なのかを調べて、神様にふさわしい福音の兵士として武装する時間を持つことに致しましょう。

兵士を選ばれる神様の基準

ギデオン当時の歴史の中で、私たちは神様が兵士を選ばれる場面を見ることができます。ミディアンに征服されたまま奴隷として暮らしていたイスラエルを解放するため、神様はギデオンを呼ばれ、軍隊を召集されました。このとき3万2千人が志願しましたが、最終的に選ばれた人数はたった300人でした。

…主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ 今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの 山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。…水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」 士7:1–8

当時、イスラエルに向かって陣を組んだミディアンの兵士は13万5千人に達しました(士8:10)。その数はいなごの群れのようで、彼らが乗ったらくだの数も海の砂のように多かったというので(士7:12)、実際3万2千人の兵士が対抗したとしても、歯が立たなかったことでしょう。

しかし、神様は兵士が多かったら自らを誇るであろうと言われ、恐れている者2万2千人を帰されました。人としてはとても勝利することのできない条件を通して、人の知力と勇敢さではなく、神様の権能で勝利するという事実を悟らせようとされたのです。

「自分がやった」と自慢する人も、恐れる人も神様にはふさわしくありませんでした。彼らは神様に対する信仰を持っていない人です。全ての歴史を進め導いて行かれる神様に頼ることができず、人の能力を神様の御力よりももっと大きく考えたので、神様の兵士となる資格がありませんでした。

残りの1万人の民についても神様はまだ多いと言われ、再び彼らを試されました。そして、水を飲むときひざまずかない者300人だけを選ばれました。

神様が兵士を選ばれるとき、まずは心構えを見られ、二番目には態度を見られました。自慢したり恐れる者も、いつかはひざまずく者も帰され、最後までひざまずかない300人を率いてイスラエルをミディアンの手から救い出されました。

神様が共におられる時から、勝利はすでに予定されていました。それで300人の兵士が、神様の御言葉どおり松明を持って角笛を吹いただけでも、敵は味方どうし殺しあって自滅してしまいました(士7:9-22)。

福音の兵士に予定された苦難と勝利

神様がギデオンの勇士を集めた基準を見ると、私たちがどのようにする時、神様が喜ばれる福音の兵士になることができるのか知ることができます。神様が兵士たちに願われたのは、武芸や学識ではなく、一途に神様だけに頼り、神様に栄光を帰す信仰と、どんな状況にもひざまずかない態度でした。

私たちを召されたのもこれと同じです。シオンの中でキリストに従う私たちは、福音の兵士です。先頭に立って宣教に力を入れている人や、後ろで協力する人や福音のために祈る人や、福音がうまくいくことを願って共に苦労する人は、皆福音の兵士といえます。

この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。 黙17:14

神様から召され選ばれた忠実な者たち。福音の兵士には勝利が予定されていますが、戦う過程の中で苦難もあります。その苦難に勝ったとき、福音の本当の兵士として義の冠を受けるようになるのです。

キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。… 二テモ2:3–9

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。…どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。…わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。 二テモ4:2–8

キリストの良い兵士はキリストと共に苦難を受けます。自分のことに縛られて福音を投げ出さず、どんな試練にも決してひざまずきません。大変なこと、障害があっても打ち勝ち、どうすれば霊的な戦争で勝利し、兵士としてお召しくださった神様により栄光を帰せるのかを考えます。

私たちはキリストの立派な兵士として、苦難にも耐え、打ち勝たなければなりません。どのような苦難にもひざまずかない姿勢こそ、信仰と共に福音の兵士としての必須条件です。

霊的大戦争

私たちはサタンの勢力と霊的に戦っています。聖書には、サタンが激しく怒って聖徒たちと戦う場面が使徒ヨハネの黙示を通して記録されています。

竜(サタン)は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。 黙12:17

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 エフェ6:10–12

神様から召された福音の兵士たちは、天から始まってこの地で締め括られる霊的大戦争に参戦しています。聖書には、サタンが海の砂のように多い人々の上に君臨して、神様の掟と信仰を守る聖徒たちに敵対すると預言されています。彼らと比べて、味方はとても少数です。しかし、神様の救いは、人の多い少ないにかかっていません。

イスラエルの軍隊がすべて恐れおののいているとき、ダビデが一人で巨人ゴリアトを退治できたのは、彼が万軍の神様に頼って進んだためです(サム上17:45)。神様はこのような信仰の勇士を望んでおられます。

ギデオンの300人の勇士は、いなごの群れのように多い敵軍の前でも数に惑わされず、ひたすら神様が共におられるという信仰のみ心に抱いたまま、どんなことにもひざまずきませんでした。彼らのように、私たちも神様にのみ頼り、神様にのみ栄光を帰す信仰、どのような状況でも、敵の前でひざまずくことのない姿勢を常に保持していかなければなりません。

神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは 知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。 ロマ11:2–5

神様の選ばれた残りの者たちは、バアルにひざまずかない人たちです。私たちは、この世にひざまずくような状況と妥協する卑怯な者ではなく、信仰でそのすべてのことに打ち勝ち、最後まで神様だけを見つめ、神様が喜ばれることを行う勇士にならなければなりません。

神様の武具を身に着けなさい

私たちの相手はサタンとその部下である悪の諸霊です。見えない大敵と戦うためには、霊的にいつも目覚めて身を慎まなければなりません。

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。 一ペト5:8–9

勝利するためには、「敵を知り己を知る」との言葉のように、私たちはいつも目覚めて、大敵であるサタンの動向を注視し、自分自身の姿も見つめていく必要があるでしょう。そのためには、まず福音の兵士として徹底的に武装しているのか、自分のことをよく点検してみなければなりません。兵士が、軍服も着ず武器も持たずに戦場に行きはしません。頭からつま先まで徹底的に武装した「完全武装」の状態で戦場に行きます。神様は福音の兵士たちに神様の武具を身に着けなさいという軍令を下されました。

邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、〝霊〟に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 エフェ6:13–20

真理の帯を腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさいと言われました。私たちの精神はいつも救いを考えるように、救いの兜をかぶりなさいと言われ、信仰の盾と霊の剣、すなわち神様の御言葉を取りなさいと言われました。

霊的な兵士として、私たちはこのすべてのものを準備しなければなりません。これらの中で、ほかの物は自分の魂を守るための防御用となりますが、御言葉の剣は、敵を退治する攻撃用の武器です。信仰の盾でサタンの火の矢を食い止める一方、鋭く磨いておいた御言葉の剣を振りかざして、サタンを撃退するのです。

命の御言葉の剣、新しい契約

御言葉の剣を使わずにいると、サタンが放つ毒矢に致命傷を負う可能性もあります。サタンは、死と闇の権勢を持っている者として、殺す霊であり、一人の魂でも多く殺すために、その主な武器である嘘を初めとしてあらゆる方法を用いることでしょう。攻撃は最大の防御であるという言葉があるように、このようなサタンに対抗して退治しようとするなら、私たちがまず御言葉の剣を使わなければなりません。

神様の御言葉は生きていて運動力があり、どんな剣よりも両刃が鋭く、魂と霊および関節と脊髄を切り裂くことができる強力な武器です(ヘブ4:12)。私たちはこの御言葉の剣を振りかざしてこそ勝利することができます。神様は私たちに、罪と死を追いやる命の御言葉の剣を与えるために、この地に来てくださいました。

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」 ヨハ6:53–55

キリストの肉と血を食べて飲ませ魂を生かすことこそが、福音の兵士としての私たちの使命です。私たちが神様から受けたこの御言葉の剣を振りかざすたびに、サタンは退行し、サタンの捕虜となっていた魂は解放され命の道へと出て来ます。新しい契約の命の真理を伝えることによって、霊的世界でのサタンの勢力はそれだけ弱くなるのです。世界のすべての民が永遠の命の道へと駆けて来るのは、サタンの勢力がそれだけ崩れたという証しでもあります。

勝利を得る者に与えられる命の冠

私たちは、この世のすべての人たちに真理を伝えて悟らせ彼らを命の道に導かなければなりません。福音を伝えることにおいて、恐れる心を持ったり自分の実力を考えて進んではいけません。救いは、ひたすら神様の御恵みであり、賜物です(エフェ2:8–9)。ギデオンの勇士たちが神様の方式どおりにして勝利したように、私たちを助けてくださる神様の力に頼って進み行くとき、私たちは霊的な戦争で勝利することができます。

一人の魂を生かすことは、霊的世界での大戦争の果てに得る結果です。ですから、まずは神様に切に求めなければならず、神様から受けた知識と知恵を動員し、その上に犠牲と愛を加えるべきです。それで使徒パウロは、一人の命を生かすことを「産みの苦しみ」と表現しました。

サタンも霊的な戦争で負けることのないよう誹謗と嘘、あらゆる悪の方法で真理を妨害しています。サタンが神様の声を聞かせないように壁をもっと高く積み上げる時、私たちはより大きく叫び、天の家族が天の父と母の御声を聞いて帰ってくるようにしましょう。人々の精神を支配しているサタンの壁を取り除き、打ち砕き、命の御言葉が彼らを導く時、私たちは福音の兵士として勝利者になるのです。

サタンのあらゆる誹謗と誘惑を追い払い、初志一貫、神様のみを考え、天国に向かって進む人。神様はそのような人に命の冠を下さると約束してくださいました。

ギデオンの勇士たちのような信仰で、この世にひざまずかず、天の父と母のみを道しるべとして最後まで進みましょう。私たちの苦労はひと時であり、私たちが享受する栄光は永遠です。天への望みを忘れず、天の父と母にいつも栄光を帰し、その名に頼り、勝利する福音の兵士に皆さんがなられるよう願います。