シオンで悟った家族と愛と人生の意味

韓国 済州 / イ・グクチョル

184 照会

家族の生計を担う家長として、たくさん稼ぎさえすればいいのだと思っていました。生まれ育った中国の瀋陽(シェンヤン)で食堂を営んでいた私が、飛行機で2時間もかかる上海で、旅行ガイドとしての新たな人生をスタートさせた理由も、少しでも多い収入のためでした。妊娠した妻が、瀋陽の実家に里帰りし、一人で過ごさなければならなくなったときも、恋しい気持ちより、責任感をもっと強く感じていたように思います。

家族と離れて暮らしながら、お正月などに一度ずつ妻と子供に会うという生活がいつしか4年。仕事がだんだん厳しくなり、私はもう一度選択の岐路に立たされるようになりました。知人の援助を受けて、ここで働き続けるか、あるいは、この際、両親が先に移住している韓国に行って、別の仕事を始めるか。悩んだ末、後者を選んで韓国に向かいました。

両親のいる水原(スウォン)でしばらく過ごした後、就職した先は済州島でした。韓国人はもちろん外国人もたくさん訪れる島だけあって、済州(チェジュ)島は青く美しい島でした。新しい生活に対するときめきも束の間、仕事を開始してから1週間目、母親の胃がん発病の知らせを聞きました。奈落の底に突き落とされたような気持ちでした。

看病のため、水原と済州島を行き来しながら歯を食いしばって働きました。一日も早く手術費も工面し、韓国に妻子を呼んで、一緒に暮らしたかったからです。幸い、母親のがんの手術は成功裏に終わり、翌年にはこぢんまりとした家を手に入れて、ようやく家族そろって過ごせるようになりました。

ただ幸せなものとばかり思っていました。しかし、私の考えとは違い、妻は私のせいで、思い悩んでいることがいくつもありました。自分一人で過ごすことに慣れていたせいか、見知らぬ都市で、知り合いもなく、一人で子供を育て家事をしている妻のことは考えずに、私だけ夜遅くまで友達に会って時間を過ごすのが常でした。妻と子供にすまないと思いながらも、悪い習慣は簡単に直りませんでした。

妻は寂しくてつらい時間をよく堪え抜きました。ご近所の方の勧めで、神様の教会に通ってからは、私が見ても「教会に通う人はこうでなければ」と思うほど、母として、妻として、また信仰を持つ者として、真面目に生活し、息子と私のこともよく気遣って世話をしてくれました。数ヵ月後には、私も妻の後について神様の子供になる祝福を受けました。昔から何か一つは信じなければならないと思っていたのもあり、気苦労ばかりさせる夫に嫌なそぶり一つ見せない妻が、内心ありがたくもありました。

しかし、その後数年間、新しい仕事に手をつける度、どれもこれもこじれてしまい、私の心も複雑にこじれていってしまったようです。仕事がうまくいかないのは妻のせいでもないのに、いたずらに妻の信仰を理由に揚げ足を取ったり、過越祭を守ろうと言われても、他の事業を調べるという口実で中国に行き、つらい思いをさせたこともありました。

ずっと妻を苦しめてきた上、相談もせず一人で中国に飛んで行き、あちこち回りながら事業の構想に余念がなかったある日のことでした。電話で話しながら、妻が突然尋ねました。もしこれから先、人生が1年しか残っていないとしたら、どうするつもりなのかと。当然、家族と一緒にいるのではないかと言いましたが、とても妙な気分でした。家族とは何だろう、愛とは何だろう、人生とは何だろうか。ひょっとしたら、私が間違っているのかもしれないと、その時初めて思いました。家族のために、一生懸命お金を稼いで成功するんだと言いながら、いざ肝心の家族は後回しにして、雲を掴むようなことのために、走り回っていただけなのではないかと思いました。

だからと言って、韓国に戻ったとしても、厳しい状況が劇的に変わるわけではありませんでした。何もできないまま時間だけ過ぎていき、秋夕(チュソク、旧暦の8月15日)を過ごすために韓国に来て、妻に聖書の御言葉を教えてほしいと、それとなく頼みました。聖書で道を探してみるつもりでした。礼拝の時はただただ難しく感じられた御言葉が、集中して聞くからか、耳にどんどん飛び込んできて、胸に刻まれていきました。人生の意味、人の道理と生きることに対する姿勢、魂の世界の理、愛する人と手を取り合って進まなければならない天国、そこに行く方法、このすべての真理を教えてくださった父なる神様と母なる神様…。聖書にすべてはっきりと証しされていて、疑いの余地がありませんでした。すっきりしながらも、心の片すみで寂しい気もしました。生きて行くのに必要なものは、すべてすぐ傍にあったのに、今までその周りだけを堂々巡りしていたのですから。

「天地を創造された神様の御心通り生きてみよう。天の父と母が、すべて息子、娘たちの幸せのために下さった御言葉じゃないか。信じて従ってみるんだ。」

毎日説教を聞きながら神様の教えを学び、掟に従って礼拝をささげました。シオンで奉仕できることがあれば、率先して体を動かしました。「祝福をたくさん受けてください」という挨拶通り、本当に神様に、毎日あふれるような祝福を受ける気分でした。誰かに頼るということが、こんなにも心強いとは、まったく知りませんでした。柔和になって欲を捨てると、前より少ない稼ぎでも、笑うことはさらに多くなり、百害無益の習慣もすぐに捨てました。荒い性格と言葉遣いも穏やかに変わりました。およそ10年ぶりに会って「お前、どうしてこんなに変わったんだ?」と驚いた親戚の兄が一部始終を聞いて、ただちに新しい命の祝福を受けるほどでした。

わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。 申10:13

本当に神様の御言葉は私たちの幸せのためのものでした。その事実を確かに体感しながらも、なかなか従うことができなかったことが一つあったのですが、それは「宣教」でした。以前の私のように、世の中でさまよう人々を天国の道に導こうと福音に献身する家族を見ると、胸がジンとしながらも、いざ私がしようとすると、とても難しく感じられました。それでも黙ってはいられないので、シオンの家族に付いて行き、一緒に出かけてみましたが、口が動きませんでした。友達や知人に会わないか心配で、私の知らないことを聞かれるのではないかと気をもみました。

このままではいけないと思い、少しでも座る暇さえあれば、真理の発表の教材を開いて、ぼろぼろになるほど読みました。考えれば考えるほど確実な真理であることを悟り、ある瞬間心構えが変わりました。

「罪を犯すわけでもなし、この貴重な御言葉を伝えるのに、何を怖がって、ためらう必要があるんだ!」

私が知っている範囲で、最善を尽くして御言葉を伝えました。私が流暢に話せなくても、天の家族は真理の価値を見分けました。ある家族が言葉が通じなくて、私に電話をつないでくれたある中国人の方が、ずいぶん長い時間、電話で御言葉を聞き、すぐに真理を受け入れた事もありました。一人の魂が神様の御前に悔い改め、罪から新たに生まれ変わる姿を見ると、まるで葦の海が分けられる奇跡でも目撃したかのように胸がいっぱいになりました。この世でどんなことをしながらも、感じたことのないやりがいと喜びが毎日のように続きました。

離れて暮らしていたため、たった一人の息子が成長する姿を目にすることができなかった私は、後で一緒に暮らしながらも子供が何を望んでいるのか、何を必要とするのかわからない父親でした。時間になればご飯を食べ、眠くなったら寝て、自然に成長するものと思っていたのに違いました。一から十まで、朝目覚める瞬間から夜眠る時間まで、子供にはお母さんの果てしない愛情と真心が必要でした。一日や二日ではなく、子どもが成人するまで、毎日です。

そういえば、愛を抱けという聖書の教えは、母の心を持つようにという意味ではないでしょうか。御言葉を聞こうとしない人のために、ひざまずいて涙で祈り、心を開いて魂の救いの道理が理解できるように、雨の日も雪の日も御言葉を伝え、その魂が母の心痛められる切ない心情を察するようになるまで待つこと。このすべてが愛の実践であり、天の家族の責務であり、私たちが歩むべき人生だと信じています。

今もたまに思います。私に残された歳月が多くなかったら、何をすべきだろうか。遅ればせながら、今からでも母の道に従っていくことができて、幸いで、感謝しております。後日、誰かが私に「あなたの人生はどうだったか」と聞いたら、「気づくのが少し遅かったけれど、だからこそ、もっと一生懸命に愛した」と言いたいです。また実際に、そんな人生を生きたいです。

天の父よ、母よ、愛を知らなかった私に、愛を悟らせてくださってありがとうございます。感謝と幸せを文字だけで理解していた私に、本当に感謝すべきことは何なのか、私たちが追いかけるべき幸せが何なのかを悟らせてくださって、ありがとうございます。私を救おうと長い年月の間、犠牲になられ、待ってくださった恵みが無駄にならないよう、一人の魂を生かす聖なる業に精一杯力を尽くしていく息子になります。この小さな子供に聖霊の力をお許しください。