神様は私たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という御言葉を下さいました。私たちはこの御言葉に頼って、聞き従い、弟子をつくることを何よりも重要視して多くの努力と真心を尽くして来ました。
しかし、誰でも弟子をつくる宣教師の資格があるのでありません。神様が遣わす宣教師の資格条件を聖書を通して調べ、今日私たちは福音を伝える宣教師として物足りないところはないか省みることにします。
…だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 マタ28:16-20
「…弟子にしなさい…」という御言葉は英文聖書で調べてみると「… make disciples…」すなわち「弟子を作りなさい」となっています。師匠が持っているすべてのもの、すなわち神様に対する愛と信仰をもって行うすべての恵ましい心が、弟子にそのまま伝えられて継承されるので、弟子を作る師匠は宣教師としてまず備えなければならない部分を完全に備えていなければなりません。立派な精神と立派な信仰を持っている師匠が立派な弟子を育成することができるからです。そうでなくては弟子たちに善くない模範になって人間的なことと欲ばかり伝えるようになるのです。
したがって、私たちが伝えて教えなければならない科目は、神様が私たちに仰せられたこと、神様が私たちに命じられたことです。私たちは神様の国の文化と霊的世界の慣わしを学ぶ過程にあるので、もっと熱心に学んで、私たちが教わったことをすべての民族に伝えるだけの資格を正しく備えて、神様に喜ばれる福音の宣教師にならなければなりません。
では、神様が望まれる宣教師の資格条件をいくつか調べてみます。
第一、聖霊に満ちた人が宣教師にならなければなりません。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。 使1:8
人の人為的計画と知識、知恵によって成し遂げて行く福音の業でないため、聖霊の指導と導きに従って実行する人でなければなりません。いつも神様の御旨なら、喜んで実行する心構えが正しくできている時、宣教師の資格があります。そういう人たちであってこそ、神様の御心にかなう正しい宣教師であると言えるでしょう。
どの時代にも自分の意見と固執、考えよりは神様の御旨に従う信仰を持っている時、神様はその人を預言者とし、神様の御言葉を伝える福音の道具にされたという事実を、新・旧約のすべての御業を通して確認することができます。
私たちもひとえに神様の御旨に従順に従い、聖霊に満たされ、神様の御言葉をその通り実践することを尊く重んじる宣教師にならなければなりません。そのような心で宣教に臨んでこそ、神様に喜ばれる、しかるべき結果を得ることができます。
第二、救いの確信をもっている人でなければなりません。
その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません…何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる…神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。 一ヨハ5:11-15
どれんなことも唯一神様の中で聖霊時代の救い主である神様の御名を信じることで、救いを確信するようになったということを伝え、その証拠を見せられる宣教師にならなければなりません。人の考えと知恵に依存せずに神様にだけ頼る心を持って、神様が証して下さったとおり実践して行かなければなりません。
“霊”と花嫁の導きに従う私たちには救いの確信があります。私たちの確信を弟子たちに伝えてあげなければなりません。神様を悟った時や神様が下さった真理の御言葉を見つめ、また霊的世界に対する霊眼が開いた瞬間などが自分の心に深い感銘として刻まれている時、弟子たちにもやはりそのような感動を伝えることができます。自分が体験した一番強烈な信仰の瞬間を確信を持って伝えたら、救いの確信がなかった人までも神様を確かに信じるようになり、神様の祝福を求めるようになることでしょう。
第三、伝えずにはじっとしていられない心の持ち主にならなければなりません。
…わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。 エレ20:7-9
このような心を持った人が宣教師としての資格を備えたと言えるでしょょう。ただ形式的に勧められて福音を伝える人は、神様の望まれる宣教師ではありません。誰が勧めようが勧めまいが神様の約束された救いを確信して伝えずにはいられない心構えを持つようになった時、弟子をつくるだけの宣教師になることができます。
世のところどころに地震やききんが起こり、民族と国家が敵対して立ち上がり、太陽と月と星にしるしが現れるであろうと言われた預言が成就しているこの終わりの時、神様が許された命の御言葉を伝えてこそ死んで行く彼らを生かすことができるので、伝えずにはいられないという宣教の信念と燃えるような切なる心で福音を伝えなければなりません。
燃えない心で伝えると、聞く人も燃えない生温い状態で受け入れるしか他ならないのです。神様の御業なら小さな事でも熱心に、意欲をもって福音を伝えてこそ一人の魂を生かすことができます。神様の御言葉を聞くのを拒む人々の前でも大胆に証しすることができるのも、燃えるような熱い心があるからです。
…ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」 使4:16-20
使徒たちは世の偽りの宗教指導者たちの前で、大胆に叫んで証しをしたのです。神様が私たちを選んで下さり、神様の御言葉を見て聞いて感じるようにさせて悟るようにされたのは、この時代私たちに、見て聞いたそのとおり行って伝えよとの神様の御旨であることが分かります。
ですから、マタイによる福音書28章にもただ行きなさいと仰せになっただけで招待されたところに行きなさいと言われていません。どこでも行って私たちが見て聞いたことを燃える心で伝えて、神様の栄光を現わし、その教えに完全に聞き従う貴い命の実を結ばなければなりません。
第四、福音を恥としない強靭な信仰の持ち主でなければなりません。
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 ローマ1:16
神様の福音を伝える者は福音を恥ずかしがるよりも、むしろ、福音を受け入れることのできない人々を憐れんで福音を大胆に伝えることのできる力強い信仰の持ち主にならなければなりません。
福音を伝えてみると、真理のわからない世の人々の妨げもあって、嘲りと迫害もありえるのです。しかし、世の人々の好き嫌いに構わず、私たちは神様が伝えよとの仰せに従って伝えなければなりません。
ひとえに、福音によって救いを施され、永遠の天国に導かれる権威と力が福音から出るので、私たちは自負心をもって福音を伝えなければなりません。神様が下さる知恵と能力で福音を伝え、いかなる状況でも福音宣教を恥じない堂々たる福音宣教師にならなければなりません。
第五、御言葉で武裝した宣教師にならなければなりません。
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです…主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。 一ペト1:23-25
神様の福音の御業は人の数の多少に左右されるものではありません。朽ちない神様の御言葉が中心にあって生きて動き、働く人であってこそ福音を伝える宣教師の資格を備えた人と言えます。
世々限りなく変わりない命の御言葉で武裝していてこそ、必要な時に合わせて魂の糧を分け与えることができる知恵ある宣教師になることができます。そうしてこそ自分がもっている神様の御言葉で弟子を作って神様の御旨の中で正しく育つよう指導することができます。
第六、祈りで心に聖霊の炎を点す宣教師にならなければなりません。
サムエルは民に言った…主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。わたし(サムエル)もまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。… サム上12:20-25
神様の御旨どおり実行する忠実な大祭司と称えられたサムエルは神様に真実に仕える中で、祈りを怠る罪を犯すことはないと言っています。
自分の中心が熱くなくては他人の中心を燃やすことができません。他人が燃やしてくれるのを待つのでなく、自ら信仰に火を付ける知恵を持っていなければなりません。神様に向かった信仰をもって弛まず祈ってこそ、真理のたいまつを高らかに燃え上がらせて、福音を伝える宣教師がすべての民族を弟子にすることができます。
ところで私たちには、忘れてはならないことがあります。神様がこの地に救いを施して下さり、永遠の命の証しを残して下さる時は正しい人を救うためでなく罪人を救うために来られたということです。ゆえに聖書には罪人を救うために来られたイエス・キリストの立場を医者に譬えています。
イエスはこれを聞いて聞われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。 マタ9:12-13
私たちは永遠に死ななければならない「罪」という病いにかかっています。その致命的病気をいやすために、キリストは愛と犠牲と誠意という治療方法をもってこの地に来られたのです。ひたすら愛という名で、私たちの代わりに、贖罪の祭りのいけにえの供え物になられたのです。
このようなキリストの愛を悟る私たちなら病人に必ず必要な医者の立場になって死の病いにかかった魂たちに近寄って愛と犠牲、誠意というキリストの治療法で彼らを生かさなければなりません。
霊的医者として私たちが持つべき心構えについて参考にするために、朝鮮時代の名医であった許浚の話を見てみようかと思います。名医としての許浚があるまで彼には医術が仁術に変わるいろいろな悟りがあったそうです。
許浚がまだ村の医者であった時のことです。ある日、一人の女の人が息を切らして走って来て母が死にそうだから早く薬を作ってくれるようにせがむのでした。病名が分からないばかりでなく患者の命に責任を負っている医者の立場から、みだりに薬を調剤するわけにもいかないし許浚は本当に困ってしまいました。
その時突然、どこかで「香正気散三貼」という声が聞こえて来ました。驚きもし、不思議で声のする方を見るとぼろぼろの着物を着た一人のお年寄りが立っていてもう一度「香正気散を三貼早く調剤しなさい」と言うのでした。許浚はお年寄りの言ったとおり香正気散を三貼作ってあげたら、それを服用した患者は命を救ったのでした。
その後、腹痛で死んで行く嫁を生かすために、姑が尋ねて来て早く薬を調剤してくれるようにせがむのでした。その時また「香正気散三貼を早く調剤しなさい」と言うお年寄りの声が聞こえました。許浚はただのお年寄りではないと思って、香正気散三貼を調剤してあげました。その薬を服用した患者もやはり完全に癒され、感謝のお礼を忘れませんでした。そしてまた何日か経って、病名の違う死にそうな患者が命からがらになって許浚を訪ねて来ました。やはりこの時もお年寄りは現われて同じ処方の香正気散三貼を調剤してあげるように言うのです。そのとおり薬を調剤した許浚に薬の效驗を見た患者たちがお礼を言いに尋ねて来ました。許浚の心には疑惑が生じました。
「なぜ各々違った病いを同じ薬で癒すことができたのだろうか」
許浚はお年寄りについて行ってそのわけを問いました。お年寄りが言いました。
「お前は薬が人の病いを癒すと思うのか。それは水準の低い医者の考えだね。水準の高い医者は愛の力で病いを癒すのだ。お前が医術に対して真摯な態度をもっているから知らせて上げるのだ」
許浚はその時初めて、医者から発する愛の気運が患者に感興をもよおし、その感興が患者の心の中に信頼を抱かせて病気を癒すようになることを悟ると同時に、看病をする人が真心を尽くして薬をせんじて時間をよく合わせて服用させたら治らない患者が一人もいないということを悟るようになりました。
そのようなお年寄りの教えは、許浚に医術について新しく視野を広げ、真の仁術を施す天下にまたとない名医になったのでした。このような話を通して、許浚が薬というものに伴う薬の裏面にある大きい力に気づかなかったように、私たちも宣教をするにおいて神様の神々しい愛の核心が悟れずに福音を伝えたのではないか振り返ってみましょう。
神様は愛である(一ヨハ4:8)。愛は律法を全うするものです(ローマ13:10)。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。(ヨハ13:34)と言われた神様は、私たちのために大いなる愛で御自ら犠牲になり、身を献げ、真心をつくして死ぬべき霊的患者たちを 癒されたのです。
私たちは魂の医者であられる神様の後に従って人類を癒すことのできる能力と使命を受けた者たちです。患者に対する切実なる愛と誠意、そして熱意にあふれた治療ができた時、患者の心には医者に対する信頼が生まれ、病いが癒されるように、私たちも福音を伝えるにおいてそのような心構えで臨まなければなりません。それで愛は犠牲と誠意と言えるのです。
すべての掟は私たちに向けられた神様の極まる愛と犠牲、誠で立てられたため一番高次元にある医者でこそ施し得る医術です。また神様は各々に福音を宣教するための様々な聖霊の賜物を下さったのです。したがって神様の愛を重ねて受けている私たちは、その聖霊のそれぞれの賜物相応にエルサレムの神殿から流れ出る命の水の威力を証さなければなりません。
彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった…海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る… エゼ47:1-12
神殿から流れ出る水が神殿で止まれば、その真価を発揮することができません。命の水が流れて、全人類社会に染み込んでこそ魂を生き返らせることができます。私たちはこのような福音の宣教師の資格条件を備え、出て行って韓国はもちろんサマリアの全土と地の果てに至るまで、すべての民族を弟子にして神様が私たちに命じられたことをすべて教え、守り行うようにさせる宣教師にならなければなりません。