私たちはよく実がなる木を見ると、目に見える実と枝だけに注目し、見えない根については見逃します。しかし、おいしそうな実を結ぶまでには、水と養分を供給する根の役割が絶対的です。根という存在がなければ木も存在することができません。どんなに太くて丈夫であっても、根がしっかりしていなければ、その木は維持できず実を結ぶことができないからです。
このように、私たちが成し遂げたように見えるすべてのことも、私たちの力と知恵で行われたものではなく、根のように見えない場所で、働かれる神様の能力によって行われたという事実を忘れてはなりません。「私がやった」という考えは愚かで危険な考えです。かつてのバビロン王ネブカドネツァルも、神様のことを考えられず、すべてを自分が成し遂げたという傲慢な言行によって知恵をすべて失い、獣のように生活しました。自分に栄光を献げば傲慢になり、神様に従う心まで失うことになり、結局、祝福を逃すことになります。それゆえ、私たちが祝福されることを願う神様は、すべての栄光を神様に献げ、謙遜な心で神様に頼ることを願われるのです。根もなく実を結ぶ枝はないという道理を心に刻み、瞬間を共にして私たちを助けてくださる神様に栄光を与える人生を生きなければなりません。
ところが神様は、神様に栄光を帰せばその栄光をまた私たちにくださると言われました。すべてを成してくださった神様に栄光を帰すことは至極当然のことですが、そのことに祝福まで約束してくださったのです。私たちはこのような神様の約束を忘れず、すべての事に神様に栄光を帰し、祝福される賢い神様の子供たちにならなければなりません。
- 考えてみましょう
- 御母様の教訓の中で2番目の教訓は何ですか?
- 神様に栄光を帰すべき理由について話してみましょう。